イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

母国って何だろ~(ゆるしと和解②)

2010-03-11 | 第五章「和解と平和」

 7歳の時にアラスカに父母と住んだが、その時小学校で始業前に必ず、胸に手を当てて国家を斉唱したことを思い出す。日本では、全く無いことだった。自分たちの受けた教育は、母国をことさら意識化しない教育のようであった。敗戦国だから仕方がないかもしれない。

 1年にも満たない幼い海外生活を終えてから、ずっと日本で過ごしたが、学校を卒業してから外資系企業に勤めた。それは何だったのだろう。日本の会社が特に嫌いであったわけではない。ただ、幼いころの経験が何らかの影響を与えていたようだ。

 1970年代に入社した外資系企業は、今から思えば日本の企業とさほど変わらなかった。それが、100%外資に変わっていく。また、ベルリンの壁も崩壊し、世の中も大きく変化してきた。だんだん世の中に余裕がなくなりギスギスしてくる。

 そんな大企業を辞めてからは、外資とは全く無縁、業界も全く無縁、職務も全く無縁の仕事をしてきた(今から考えると、180度違う)。そんな仕事は、馴れないながらも何となく落ち着けた。

 先日、奈良や京都に行って、何かほっとした。いつも、奈良や京都は行くと爽やかになるが、今回は、もっと強烈であった。

 日本人の故郷、原型には神社や仏閣が似合う。寅さん映画が柴又の帝釈天が似合うもの判る。ところが、自分の生育史を考えると、縁あってカトリック信徒なのだ。自分の母国のアイデンティティに違和感のあるカトリック。そんなイメージが若いころはとても強かった。祖父母や父が仏教で、母だけがカトリックであったことも大きいのだろう。

 ただ、最近の学問の進歩の中で(遺伝子の研究や、比較文化の研究・・・)、今までの世の中の(かつての自分といってもよい)常識が変わりつつある。また、自分も勉強することで、カトリック信徒として母国の文化を違和感なく受け入れられるようになってきたのだと思う(カトリックも、日本でもう600年近い歴史があるのであり、随分変わってきている)。

 そんなことで、今回の奈良・京都の旅は強烈だったのだろう。

 日本人の霊性。私は、世界的に見ても美しく優れたものだと思う。日本には、そういう数千年の歴史があるのだろう。そして、この急激に変化する世の中であって、そのエッセンスを引き継ぎながら、自分も深めていければと願っている。

(感謝の領域(ゆるしと和解②)52/60)

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イエとは何かなぁ(ゆるしと和解①)

2010-03-10 | 第五章「和解と平和」

 7-8世紀の日本のことが頭を離れない毎日であるが、昨日は「本当に恐ろしい万葉集」(小林惠子 祥伝社黄金文庫)を読み返していた。そのなかに、額田王の有名な歌があった。

冬ごもり 春さり來れば 

鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 

咲かざりし 花も咲けれど 

山を茂み 入りても取らず

草深み 取り手も見ず 

秋山の 木の葉を見ては 

黄葉をば 取りてそしのふ 

青きをば 置きてそ歎く 

そこし恨めし 秋山われは

 小林氏はこの詩の解釈のポイントとして、五行思想から春は大海人皇子、秋は天智天皇を象徴しているとし、また、額田王は天智天皇の異母兄弟との仮説を出されていて、その中での大海人皇子への想いを考えている。

 門外漢の私には、学問的にどうなのか判断する力はないのだが、その解釈に従って読むと、最後の「秋山われは」の意味などがはっきりし、何とも味のある、深みのある詩として感じることができる。

 先日行った同時代と思われる高松塚古墳の五行思想に彩られた壁画の印象もあり、小林氏の解釈は表面的な解釈より格段に味がある(万葉集を鑑賞するうえでも)

 それにしても、7-8世紀の日本の政権は謀略その他が渦巻き、現代のわれわれには想像もつかない厳しい状態だったのだなあと推し量っている。われわれの祖先たちは大変な状態の中をひたすら生き抜いてきたのだろう。

 生まれた家により、一生が左右される。人の運命が左右される。少子化、核家族化で今は随分変わりつつあるが、今でもイエの影響力は生育史にさまざまな影響を与えているのだと思う。

 さて、一昨日、祖父が大変お世話になったY家のお墓が、近くの多摩霊園にあることを先日知り、友人と参った。お墓には、祖父の上司であった方の銅像がそばにあり胸が熱くなった。祖父は、若いころ、どのように暮らしていたのだろうか。そんな、今となっては訊けない問いを問いたくなった。

 幼いころのイエ、青年期のイエ。50歳台後半となった今の私にとってのイエ。随分感じが違ってきている。イエのイメージは祖父母や父母からの影響が大きいのだと思う。ただ、自分のアイデンティティの変化と共に、イエも変わってきたのだろう。前向きに意味を考えることは重要なことかもしれない。

(感謝の領域(ゆるしと和解①)51/60)

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自分を垣間見るために!(私は何か?⑩)

2010-03-09 | 第五章「和解と平和」

 生き甲斐の心理学を勉強すると。こころの防衛機制を学ぶ。湧きあがる感情を、抑えるこころの仕組みというのだろうか、場合によると湧きあがる感情に気付かないが、ある状況に特定の反応するというのであろうか。そんな勉強をする。

 かつて、心理学の精神分析で有名だった、フロイドの14の防衛機制が有名である。抑圧、抑制、昇華、合理化、感情転移、置き換え、知性化、退行、逃避、同一化、摂取、投影、反動形成、補償。難しい専門言葉であるが、日常的にお馴染みのもので、心理学を勉強しなくても既にご存じのものも多いようだ。

 例えば、お守り(入試合格)や気に行ったもの(パワーネクタイ)を見に付けて安心する(摂取)、居直ったり猫かわいがりするとか極端に走る(反動形成とか)、屁理屈をいう(合理化や知性化)、八つ当たり(感情転移)で不安を紛らすとか(周りはこまりますので他の規制をお薦めします。エイト・アタッカーにならないで!)、人のせい、まわりのせいにする(投射)・・・詳しくは、「生き甲斐の心理学」第8章をごらんください。

 防衛機制はこのように、いろいろ定義されているが、勿論その定義にも当てはまらないような、さまざまなこころの動きもある。そして、そうした自分の防衛機制を何となく把握していると自分を知る上で良いようだ。なお防衛機制を世の中の常識や倫理道徳で、ネガティブにとらえるのではなく、生きる上で大切なこころの仕組みと捉えることは勉強するうえでとても大切だと思う。

 薄皮を剥ぐように、自分の微妙な心の動きや防衛機制に気付く。それは、逆に言えば、今まで気づきにくかった感情に気付いていくことなのだろう。暗い感情も含め、自分の感情を知ることは、私は何か、そして如何に生きるかを知る為の宝の情報である。

 今回10回にわたり、自分とは何か?と問い続けた(なるべく心理学的に)。この問いかけ事体が、学徒としての学びの一つて、私自身も貴重な気づきもあった。

(感謝の領域(私は何か?⑩)50/60)

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魂からの声を聴く!(私は何か?⑨)

2010-03-08 | 第五章「和解と平和」

 昨日は、カトリック教会の司祭叙階式に参加させていただいた。東京カテドラル聖マリア大聖堂での荘厳かつ楽しい叙階式であった。2000年の伝統を感じさせていただき、また、この時代に妻帯せず叙階される新司祭の尊い想いに心が洗われるようであった。

 たまたま今、日本の古代のことに想いを寄せていることもあり、平安時代に遡る仏教の潅頂や、神道の斎宮、あるいはそれ以前にもあっただろう聖なる仕事のことを考えた。勿論人間であるから、聖なる仕事と従事する人とのギャップは当然あるのだが、そのギャップを乗り越える聖なる仕事への憧れは、人に宿る基本的な特質ではないかとさえ、今は思う。

 日本でも、最近例えば公開講座などでは、寺社関係、伝統宗教関係が結構にぎわっている。私もそうであるが、聖なるものに惹かれるのだろう。どんどん世俗化される世の中ではあるが、それがかえって、聖なるものを求めるのであろうか。

 惹かれるというのは、逆に言えば、魂(非常に深いところの)からの不安というものがあるのだろう。魂とはどんなものだろうか。不可知論の世界であるので、死ななければ判らないのかもしれないが、推察し信じてみることで、より良く生きる糧となるように思う。U先生から教えていただいた、カトリック全書の「神のめぐみとは」(J・ドージャ著)を再読したくなった。

 自分の生育史からなるこころとは別に、魂なるものを推察し、それを信じてみると違った世界が見えるのだと思う。

 そして身体、こころ、魂からの不安を気おつけて考えたり識別してみると、そこから私は何か?という答えが垣間見られるかもしれない。

 写真は東寺。祖先たちも必死に、こころのありようを熟考していた。私もそうした文化の延長にいる。

(感謝の領域(私は何か?⑨)49/60)

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こころの不安と身体の不安は別のもの!(私は何か?⑧)

2010-03-07 | 第五章「和解と平和」

 今の不安(暗い感情)は、どこから来るのかと考えることで、落ち着くことがある。漠然とした不安より、これは何処から不安がくるのかと推察し、分析するだけで落ち着くのだ。

 生まれてから今までの歴史・経験としてのこころ。つまり生育史からくる不安。身体から来る不安(胃がむかつく、トイレにいきたい・・・)。さらにもっと深い魂から来る不安を仮定してみると面白い。

 日々、自分に舞い落ちてくるような不安(暗い感情)が自分の生育史(こころ)からくるのか、身体からくるのか、魂からくるのかを思索するのである。

 自分は何かと考える時に、抽象的に考えるより、自分を形作ると思われる、こころ(生育史)、身体、魂を想定し、そこから来る不安を推察するのは、意外と奥が深いようだ。

 大学受験を控えた夏休み。よく友達と図書館に勉強に行った。当時は、珍しいエアコンが完備した環境で勉強ができたので、多くの受験生が長蛇の列で図書館を利用していた。

 さて、ある日、体調が思わしくなく、図書館に入場するために炎天下で並んでいて、貧血を起こしたことがあった。眼がくるくる回り、視界が暗くなった。そんな恐ろしい経験があった。

 この貧血は、横になり体調が戻ると何ということもなく終わったが、その恐怖の経験は忘れられず、精神的に参っている時など、この恐怖体験が顔をだすようなことがあった。大した身体の変調でないのに、恐怖の経験で不安が増幅してしまう(不安が錯乱までに)。ところが、大きな病気かと大病院で診察を受けると、何でもないと言われる・・・そんなこともあった。

 得体のしれない不安を感じた時、それが身体から来るのか、今までの経験のこころから来るのかを識別するのはとても大事なように思う。

 写真は綿棒。以前、身体の不安とこころの不安を取り違え、家人に笑われた変な思い出があります(その顛末はヒ・ミ・ツ・)

(感謝の領域(私は何か?⑧)48/60)

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