イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

東北の大津波・民話に想う!(この世を考える 5/10)

2012-12-26 | 第八章「魂と聖霊」

 私の前に、2つの本がある。一冊は柳田国男の「遠野物語」。もう一つは、やまもと民話の会の「ー語りつぐー第三集 鎮魂・復興へ 小さな町を飲みこんだ 巨大津波」。

 「遠野物語」は有名な本であるが、そのなかのー99-は、3.11の津波に良く引き合いにだされたようだ。内容は、大津波で妻と子供を失った男が、生き残った二人の子供と一年くらい小屋をつくって暮らしていたが、夏の月夜の晩に、男女を見かけた。女は彼の妻で、男は村の男で二人とも大津波でなくなっていた。妻と結婚するまえには、その男と妻は仲が良かったとのことで、死んでから夫婦になったようだ。そんな話である。

 民話、「巨大津波」は山元町の「やまもと民話の会」が3.11のことを文集にしたものだ。昨年、NPOの不思議な縁でたまたま入手したものだ。素朴な方言で、心を打つ語りもあり感動した。ただ、この文章に始めて接したときは体験の概要はもちろん分かったが、何故民話か、よく判らなかった。しかし、今年の冬に現地を訪れたり(大変な中で、あたたかく迎えていただいた)、また、最近は機会にめぐまれ「遠野物語」の読書会に参加したりするうち、意味が少しづつ判ってきたようだ。

 自分の生きた言葉(長い歴史を持った)で、自分の無意識・魂と真の対話をする、そんな感じだ。

 例えば、大切な人を決定的に失しなうことは、この世の論理では悲劇そのもので埋め合わすことができない。それに罪悪感などが重くのしかかる。しかし、自分のありのままの言葉を紡いでいくと、何かが変わってくる。無意識・魂の世界の論理は、ちょっと普通と違ってるかもしれないが、どこからともなく来る愛が、傷を癒し不思議な空間に誘う。その貴重な記録が民話なのだろう。

 この世を考える 5/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています.

 

 


祈りの季節を祈ろう!(この世を考える 4/10)

2012-12-25 | 第八章「魂と聖霊」

 今日はクリスマス。世界中のキリスト教信者は、ミサに与り祈る。12月22日の冬至が過ぎてから、世界各国で祈りの季節が始まる。日本では、クリスマスを楽しみ、大晦日・正月が来て除夜の鐘を聞きつつ初詣に行ったりする。祈り好きの国民かもしれない。

 幼いころは、父母から祈り方を教えてもらったりで祈るが、その意味は殆ど判らない。しかし、世の中のことを知ってくると、困った時の神頼みで、本当に祈るようになる。私の若い頃は、実存主義とか近代思想の影響もあり、神に祈ったりするのはカッコ悪いと想ったこともあった。しかし、そんな私も、ちょっと困っては「困った時の神頼み」をしたものだ。

 「困った時の神頼み」をはじめ、祈りは人間の美しい習性だと思う。逆に、祈らなくなったときは、心の健康上良くないとも言われている。

 私は、「生き甲斐の心理学」を通して、臨床心理学を学んできた。ただ、いくら理論が素晴らしくても、人間のできることは限られている、勉強するに従って、祈りの大事さが判ってきたように思う。

 この世を考える 4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています

 


現在形だけのピダハン語から学ぶ!(この世を考える 3/10)

2012-12-24 | 第八章「魂と聖霊」

 昨晩は、アマゾンに住むピダハンのドキュメンタリーを見た。キリスト教の宣教師だった、ダニエル・L・エヴェレットさんが少数民族のピダハンと暮らす中で、宣教師をやめ言語学者になり、ピダハン語を研究しつつ様々な形で問題を投げかけていた。

 奇妙なピダハン語は、言語だけでなく口笛でも表現できるということで驚き。さらに、数詞がなかったり色の表現がなかったり、過去形、未来形がないなどびっくりした。言語学者の間では再帰的な表現がないとのことで大論争をもたらしているようだ。そして、現在形のみ存在することが原因か、ピダハンの人は、宣教師の概念での悩みがないようで福音の意味が逆に問われ、ダニエルさんは宣教師をやめたそうだ。

 ストレス曲線(不安、怒り、身体症状、ウツ、錯乱)の暗い感情は、日々刻々やってくる。

 そのストレス曲線を、過去の不安、現在の不安、未来の不安といったように時制でわけてみるとどうだろうか?自分のストレス曲線のスペクタクルは過去に重きがあるか、現在に重きがあるか、未来に重きがあるか。それを、精神的にまいっていたころ、快調だった頃・・・そうな風に思いめぐらす。

 私の経験では、現在に重きがあるときは健全で生き生きしているようだ。反対に、未来に重きを置いて、それこそ杞憂ばかりしているのは良くない兆候。

 私は、かつてマーケティングとか企画の仕事をしたことがあるが、その時にKさんから聞いた言葉が忘れられない。「企画の仕事といっても、長期的なことなどはほんのちょっと考えれば良い。せいぜい10%くらい・・・」。「生き甲斐の心理学」を学んで、その言葉を反芻してみても、そうだと思う。感情生活もそうだが、現実的な仕事の世界も同じだ。イキイキと生きるには「今を生きる」ことがピダハンの人々と同じように大事なのだ。

 この世を考える 3/10

 にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています

 


感情の意味を考えて嫉妬心を乗り越える!(この世を考える 2/10)

2012-12-23 | 第八章「魂と聖霊」

 奈良の元興寺の屋根瓦。藤原京時代の瓦が何と今でも使われているという。今年の夏は明日香をゆっくり散策することはできなかったのが残念だ。ちょうどその頃、河瀬直美監督の明日香を舞台にした映画「朱花(はねず)の月」が上映され、観光バスツアーがあり応募したが、残念ながら中止となった経緯があった。

 その「朱花(はねず)の月」の映画も期待したが、見る機会がなかったが、昨日やっとDVDを鑑賞することができた。坂東眞砂子氏の小説「逢わなくもあやし」という小説が原作ということも知った。万葉集の持統天皇の歌の一つで、天武天皇が崩御されたときの反歌の一つ、次の歌が映画の始めに現れたのには驚いた。

 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入るといはずやも 智男雲 (万葉集 2-160) 《映画では、智男雲を「逢わなくもあやし」としていた。》

 (燃えている火でも 取って包んで 袋にいれるというではないか 智男雲)(日本古典文学全書の訳) 

 智男雲は、訓読みができず学者の間でも定説がないという。ただ、雲は魂を表しているのではないかと私は妄想している。また、火は諸説から天武天皇の暗喩だと思う。「春過ぎて・・・」をつくった持統天皇が、夫である天武天皇(沢山の奥さんがいた)を偲んで作ったこの歌は、何か深い情念の火を感じてしまう。

 映画は、インターネットのオフィシャルホームページのロケ地地図などを頭にいれてみると、明日香を楽しめる。平城京より大きかったとされる藤原京。まだ1割程度しか発掘されていないという。映画を見て、また明日香病が始まりそうだ。

http://www.hanezu.com/index.html

 さて、この映画では男女の愛と嫉妬が一つのテーマである。嫉妬心は、古今東西で様々な芸術作品のなかで取り上げられ、それこそ1、2にランキングされる何ともいえない感情である。そして、私も幼いころの兄弟に感じた嫉妬から、それこそ今の現実に至るまで、時に顔を出す感情である。「生き甲斐の心理学」でU先生は、湧き起る感情の意味を考える意義を良く言われていて。この嫉妬心についても、テレビ番組で一つのテーマとして話されていた。

 自分もかつてはそうであったが、自分の中に嫉妬心を感じると、嫉妬する自分を恥じ押し殺してしまう傾向があった。しかし、本当にそれで良いのだろうか、「生き甲斐の心理学」では抑圧することなく、湧き起る感情の意味を考えることを勧めている。いつの間にか魔界に陥ってしまうのではなく、スマートに身を引いたり、何かに転嫁したり、防衛機制をうまく働かせることで新たな生き方を発見できた経験もある。この世でいきいきと暮らす術は、ちゃんと与えられているようだ。

 この世を考える 2/10

 にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています

 


いい政治家を選ぶためにも現実吟味力をつけよう!(この世を考える 1/10)

2012-12-22 | 第八章「魂と聖霊」

 衆議院選が終わり、マヤ歴の滅びの日とされた21日が終わり、今日は冬至である。冬至は月の朔に似て、再生の始まりの日である。

 ゆずとかぼちゃも大事だが、今日は政治について考えている。今年は、持統天皇に想いを巡らし、そして平家物語(まだ読み終わってないが)に想いを巡らし、そして最近は「本能寺の変四二七年目の真実」(明智憲三郎著)で戦国時代に想いを巡らした。もちろん、衆議院選にも想いを巡らした。

 「生き甲斐の心理学」では、個人の健全性を識別するためによく、①アイデンティティの統合、②現実吟味力、③防衛機制の視点を大事にする。そして、複雑な状況下で、例えば某政治家がどう判断していくか(現実吟味力)は非常に興味が湧く。

 現在は、政治の裏舞台が見えないし、また古代の持統天皇の時代も、ところどころに肉声というか歌などが残っているが、細かい心の動きや判断は判らない。その中で、「本能寺の変四二七年目の真実」は、とても楽しかった。明智光秀、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉の戦国時代を生き抜いてきた、卓越した現実吟味力の持ち主達の行動や判断にうなった。

 詳しくは、是非「本能寺の変四二七年目の真実」をお読みいただければと思うが、本能寺をめぐっての裏の政治の世界(明智光秀、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉の駆け引き)は、通説と違い、その後の日本を作る上でなんとも言えない時だったようだ。信長・光成 対 家康、 光成・家康 対 信長、秀吉。武田氏を破って、日本統一が見えてきた時代に、政治(戦国大名)の構造改革を断行する時に、本能寺は不思議なスポットになったようだ。

 歴史の結果としては、家康が最終的に残るが、光成に恩義を感じた家康が、戦後光成を大事にし、日光東照宮や子孫の家光に光成の光をつけたのではという推測も正しい気がする。現実吟味力にたけていた家康の魂の声が聴こえてくるようだ。

 今の時代は、先ほど読んだ内田樹氏のブログによると、国民国家とグローバル資本主義の葛藤の時代とされているが、私も素人ながらそう思う。そして、こうした時代は、世界に通じるアイデンティティの統合(グローバル資本主義を超え、日本人のローカル・アイデンティティも失わない)をこころに、卓越した現実吟味力のある政治が欲しい。そして、民主主義の世の中なので、私にも当然大きな責任がある。現実吟味力を確かにして政治家に一票を投じる責任だ。

 今日は、ちと大きな話になってしまった。ちょっと風邪気味で現実吟味力を欠いているのかも(笑)。

 この世を考える 1/10

 にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています