イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

事実と視点と解釈!(人間を考える 5/10)

2012-12-16 | 第八章「魂と聖霊」

 明智光秀の後裔である明智憲三郎氏の話題の書「本能寺の変四二七年目の真実」(プレジデント社)を読んでいる。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、その後、秀吉が奇跡的な毛利氏との和睦により戻り、光秀は殺害される。これは歴史の事実として有名である。

 ただ、その解釈は、光秀亡き後の秀吉他の人達により潤色され、その事実+解釈は真実かのようにひとり歩きしていたようだ。私も、明智光秀の話は、絵本から、新書太閤記を愛読していた父から、NHKドラマから・・・いつの間にか真実のように身につけていたようだ。

 しかし、祖先を大事にする明智家の後裔の鋭い研究により、この従来の事実+解釈は揺らいだ。組織の長としての振る舞いは、今も昔も私情が入り込む隙はそれほどあるわけではない。怨恨だけで時代は動かない。そういう信念から、土岐氏との関係(光秀は土岐氏)にメスをいれ新たな視点を提供された。その結果、新しい像が開けてきている。それは、新たな人間観へのトレンドになるのではないか。

 ちょうど、私も持統天皇に興味を持ち勉強しているが、これまた、事実+真実が一人歩きしてきた世界のようだ。持統天皇が生まれた年に大化の改新が、その後白村江の戦い、壬申の乱、大宝律令。こうした時代に持統天皇は生きる。そして、古代であるが直接的、間接的に記録する文献は少なくない。しかし、事実も解釈も随分潤色され真実が分からなくなっている。因みに私の時代に学んだ大化の改新や任那などは歴史の教科書から消えたか、消えつつある。

 「生き甲斐の心理学」を学んでいくと、性格形成論を学ぶ。人が生きる過程で、他人が作った物語というか・・・それを自分が作ったかのように信じてしまう傾向があるということだ。また、防衛機制も学ぶ。それらは、逞しく生きる上で必要だと思うが、時に間違った重大なミスも犯す温床となる。その中で、悔いのない人生を生きるために、どうしたら良いのだろうか。ある思考に傾斜せず、自由な観点を持つというのも大事だと思う。

 写真の多摩動物公園のチョウチョ。先日写したものだが、自分の中ではとても新鮮だった。

 人間を考える 5/10

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感情ウォッチングで爽やかに生きる!(人間を考える 4/10)

2012-12-15 | 第八章「魂と聖霊」

 小学生の高学年の時に地学部に入った。当初は天体観測(Sky Watching)がしたかったが、当時は機材が乏しく気象観測が中心だった。小学校の最上階にある観測室で風向風速計を眺めたり、白い百葉箱で基本的な観測を継続したりする。派手ではないが、Watchingでいろいろ発見しウキウキした。今考えると、身近な気象を意識化する、客観的に眺める、そんな大事な経験だったようだ。

 さて、今は自分の感情を眺めるのが趣味である。大空を流れる雲のように、感情は流れたり変わったりする。感情は実に多様である。雲にも、積乱雲、高層雲・・・といろいろあるように感情も多様だ。

 「生き甲斐の心理学」ではストレス曲線の5種類、幸福曲線の5種類で分類するが、それだけで日常の中では十分な気がする。ストレス曲線は自分の中にある理想と現実のギャップから生じると考えるのも重要だ。そして、理想にも意識された理想もあるが、無意識からの理想もあると考えると整理できる。

 また、感情をエリクソンの性格形成論から原型で考えていくことも、日常で大変役に立つ。エリクソンによれば、ネガティブな感情は成長とともに、不信感、恥辱・疑惑感、罪悪感、劣等感、自己混乱感、孤立感、停滞感、絶望感と発現してくるようだ。そういう理論を学ぶと、雲の分類等で気象がより身近になるように、感情ウォッチングも楽しくなる(感情ウォッチング友の会でもつくるのはいいかな?)。

 参考に、2-3日の自分のことを考えてみよう。どういう訳か、雲が立ち込めてくるように、特定の感情が停滞していた。はじめは何かへんだなということで、どのような感情かは判らなかった。どうも漠とした不安感が、日常生活のささいなことで湧き上がり、継続しているようなのだ。現実にはAという現象が起こったのだが、何かが引っかかっていったのだ。思索すると、それは過去の生育史上で起こったBという経験に重なるようだった。Bという経験は、8歳の時の経験で、客観的にはよくあることであったが、当時の私にとっては辛い経験であった。そして、十分に自分の中で整理されない中、どこかで抑圧していた。それゆえ、Aという現象にBが無意識に変に重なり、感情が停滞したのだろう。

 先日、小学生の時に思い出の深い外堀公園に寄った。写真は、紅葉の綺麗な外堀公園(四谷駅の近く)。懐かしさと共に、当時の様々な感情も刺激され蘇ってくるようだった。人間は、身体だけでなく生育史により心が支配されている。そんな生命体なのだろう。

 ちなみに、Bの存在に気づくだけで、自分のもやもやは流れ去っていくようだ。外堀公園に行って、幼い頃を大切にしたためかもしれない。

 人間を考える 4/10

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 自他肯定の人間観が何かを変える! (人間を考える 3/10)

2012-12-14 | 第八章「魂と聖霊」

 もう13年前になるが、U先生の「生き甲斐の心理学」の門戸を叩き、最初に勉強した本はU先生の「人の身体は神の神殿」であった。当時は人助けのためにカウンセリング理論を勉強しよう(今から考えると無謀にも)と始めたのだ。そして、しばらく勉強してから、U先生の勉強会(ワークショップ)に参加した。それは、それこそ「人の身体は神の神殿」を実感できる、ひとりひとりが大切にされる勉強会であった。

 「人の身体は神の神殿」は新約聖書のコリントの信徒への手紙1-6-19からとった聖パウロの思想だが、実に深い。もちろん、同じような思想や哲学は他にもあるだろうが、この考え方は人生を豊かにするためにも、他人を支援するためにも実に重要だ。

 自分の経験で恐縮だが、本当に真から自分が大切にされていると実感した経験は40歳台くらいで遅い体験であった。難問に直面し、自分が混乱しているとき、それを受け止めてくれる人は少ない。身内でも、あるいはプロの専門家でも、意外に冷たかったりする(人間だからしょうがないが)。しかし、一回でも心の底から、自分が大切にされていると実感できると世界は変わる。自己肯定から他者肯定の道が開けるようだ。

 「人の身体は神の神殿」という考え方は、欧米のNPO等の基本的な根幹の思想とも言われる。そして、この考えが身についてくると(私がどのくらいついているかは疑問だが)自問自答やカウンセリングや傾聴の時に俄然、力を発揮する。さらに、最近思うのだが、自他肯定の思想は人生を豊かにする。真善美のありがたさに気づきイキイキしてくる。

  クリスマスが近づいた早朝の遠くの景色。実に爽やかだ(でも、寒いけど)。

 人間を考える 3/10

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新月の時に満月を考える!(人間を考える 2/10)

2012-12-13 | 第八章「魂と聖霊」

 今日は新月(朔)。昨日の話ではないが、昨晩時間をかけてとっていたPCのフルバックアップ作業が失敗してしまった。DVD11枚がダメに。これは、きっと新月のせいだ(笑)。

 さて、昨日から竹取物語をパラパラとめくっている。日本最古の小説とされている竹取物語。記紀には余り載ってない月(月読命の記事は少ない)とか、羽衣とか富士山の話が出ていて楽しい。しかも、かぐや姫を狙う5人の貴族の中には藤原不比等と思われる車持皇子が登場するなど、ワクワクする。登場人物から、舞台は白鳳・奈良時代のようである。

 竹取物語の最後のほうでは、美しいかぐや姫が、満月の夜に浮世を忘れるという羽衣を着て、不老不死の薬をなめ、月の世界に向かっていく。2000人の帝の部隊は、全く阻止することができない。帝を始め、翁や媼が皆悲しむ中、かぐや姫は月に行ってしまう。

 この世では月は満月であるが、天の国では反対に新月なのかもしれない(日本人はあの世をあべこべに考えるところがあるので)、そしてかぐや姫の再生が天上で始まるのだろうか。

 万葉集でも、額田王が歌った有名な歌がある。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 白村江の戦いを控えた時代の歌であるが、最近読んだ藤村由加の「額田王の暗号」(新潮社)によれば、当時の言語を研究した結果、次のような解釈をされている。

 熟田津の湯に立ちのぼる湯気のように、

 天路を行く船に乗って上仙しようと

 満月を待っていると満潮をむかえた

 今はただこぎ出そう    (101ページより)

 この歌は、持統天皇の祖母、皇極天皇が病を押して、持統天皇を含めた皇族総出で九州に向かう中で、四国の伊予の国(天香久山の片割れの天山がある。また道後温泉の近くとの説が有力)に寄航したころの歌であり、当時の死生観が織り込まれているように思う。

 地上で死んでも、あの世で生きる。不死の魂の存在を信じてたのだろう。魂の存在は、縄文時代から、あるいはそれ以前からほとんどの日本人が信じている。今でも、日本人の多くは特定の宗教を持たないが魂の存在は信じているようだ。

 内憂外患の7-8世紀の日本は、今の日本に似ている。そして、古代の政治家は厳しい現実のなか、しっかりした宗教的アイデンティティを持って生き抜いたといえる。そして、人を単なるモノとみず、愛おしんだのだろう。私が持統天皇に関心をもつのは、難しい政治の中に身を置きながら、吉野行幸などを通し貧しい一般市民を愛したのではないかと思われる点がある。

 総選挙が間近だが、実質的な建国の時代にも素晴らしい政治家がいた。そうした祖先を持つ私たちも、政治に悲観せず希望を持ちたいものだ。今日は新月であるが、あの世は満月なのかもしれない。

 人間を考える 2/10

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人のせいより月のせいにしたら!(人間を考えてみる 1/10)

2012-12-12 | 第八章「魂と聖霊」

 今の月は満月か?新月(朔)か?それとも下弦の月? 即座に回答出来る人は稀である。正解は2012年12月13日は新月。従って今日の月は、新月に限りなく近い。詳しくは、ブログの右の下のほうにブックマーク《暦のページ》や日めくりカレンダーがあるのでご覧あれ。

 私は、小学生、中学生くらいまでは夜空を眺めるのが好きで、天体望遠鏡まで買った。しかし、社会人となると浮世離れした天体より他のことに関心は移り、今の月は?と問われても判らなくなった。それが、再び興味を持つようになったのは、「生き甲斐の心理学」でU先生に太陽や月のワークショップを受けた10年前くらいからだ。

 地球は月の影響を受け、満潮や干潮がある。さらに、人間にも影響があるらしい。祖父母から伝わった、誕生の時は満潮、亡くなる時は干潮、そんな祖先からの言い伝えもあるようだ。

 心理学者のA.L.リーバーは「月の魔力」(東京書籍)で、殺人事件と月の満ち欠けの相関を調べ興味深い研究をされている。私の経験でも、満月や新月の時は、何となくいつもと違うことが起きる傾向があるようだ(統計的に調べたわけではないが)。まあ、40億年の歴史を持つ地球上の生命の一つの人間も、何らかの影響があって不思議でもなんともない。

 月や太陽、星の位置に日常的に興味を持ち、さらに季節の移り変わりに興味を持つようになると、祖先からのものの見方というか、文化遺産がだんだん身についてくるようだ。

 最近は、日本の古代史を勉強しているが、日本最古の小説とされている、竹取物語も月がテーマである。また、万葉集にも月に関する不思議な歌もある。幼いころの理科系的興味ではなく、文化系的興味がどんどん湧いてくる。

 それはとにかく、月の位置を日常的に意識するようになると、何か変なことがあったとき、「これは、Aのせいだ!」と人を責めるのではなく、「これは満月のせいだ!」と月のせいにするオプションが増える。新しい視点(この場合は月)は、解釈を変え楽に生きる力を与えてくれる。

 とはいえ、明日は新月。すべてが0からスタートし満るための分岐点。どんな日になるか楽しみである。

(写真は、酉の市の時の大國魂神社、神社の上に輝く月。)

 人間を考えてみる 1/10

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