数学・物理通信の6巻6号の編集を終えた。6巻4号、6巻5号および6巻6号のいずれの号も6月にならないと発行しない。これは発行の月を3の倍数の月にすると決めているからである。
のべつ幕無しに発行すると私は一年中何をしているのかわからなくなる。それである意味でメリハリをつけるつもりで3の倍数の月に発行する月を限っている。
投稿される方は自分で原稿さえ書けばいいが、発行するほうはそれだけではいかない。場合によっては原稿を修正してもらうこともある。
今度の6巻6号は著者と編集者の間でやり取りがかなり行われた。それで原稿をかなり修正してもらった。なんでもそのまま受け付けるのなら、こんなに簡単なことはないのだが、場合によってはそうはいかないことがある。
どうも編集者の見識を疑われるということに一般の読者から思われるようになると、サーキュラーの権威が失墜してしまう。そこらが編集者として苦しいところである。
自分にとって得意な分野だけではないから、それを読むのはある意味でハードなことである。時間もとられるし、できたらしたくはない。
それに著者も編集者からとやかく言われるのは心外でもあろう。だが、論文の審査をしないと銘打ってはいるが、どんな論文でも受付けるわけではない。おのずからそういう制約はある。
だが、著者と編集者が互いに最後には理解し合うことができるとなんだかさわやかである。理性をもった者同士なら、いつでも最後には理解しあえると思うのだが。
のべつ幕無しに発行すると私は一年中何をしているのかわからなくなる。それである意味でメリハリをつけるつもりで3の倍数の月に発行する月を限っている。
投稿される方は自分で原稿さえ書けばいいが、発行するほうはそれだけではいかない。場合によっては原稿を修正してもらうこともある。
今度の6巻6号は著者と編集者の間でやり取りがかなり行われた。それで原稿をかなり修正してもらった。なんでもそのまま受け付けるのなら、こんなに簡単なことはないのだが、場合によってはそうはいかないことがある。
どうも編集者の見識を疑われるということに一般の読者から思われるようになると、サーキュラーの権威が失墜してしまう。そこらが編集者として苦しいところである。
自分にとって得意な分野だけではないから、それを読むのはある意味でハードなことである。時間もとられるし、できたらしたくはない。
それに著者も編集者からとやかく言われるのは心外でもあろう。だが、論文の審査をしないと銘打ってはいるが、どんな論文でも受付けるわけではない。おのずからそういう制約はある。
だが、著者と編集者が互いに最後には理解し合うことができるとなんだかさわやかである。理性をもった者同士なら、いつでも最後には理解しあえると思うのだが。