物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

太平洋戦争末期の原爆研究

2016-05-26 18:24:22 | 日記
というと特に日本ですごいことをしていたかと言うと、実は今からみると大したことをしてはいない。ウラニウムの連鎖反応の可能性がどうかを検討していたり、U235を濃縮する方法として遠心分離法を使ったらよいとかその程度のことであった。

とても爆弾になるようところまでいっていなかった。ところが加藤哲郎さんが書いた、『日本の社会主義』で武谷三男が日本の原爆研究に従事していたというので、どうも道義的に責任があるとでも言いたそうである。はっきりとはもちろんそう書いてはいない。

戦争中はいまとは違って行動の自由が大幅に狭められていた。そういう時代であったら、口実をつけて自分の身を守るということは許されてしかるべきであろう。

その辺が原爆研究と聞けば、道義的な問題がすでに惹き起こされているような段階まで進んでいるかのごとく思うのはどうかという気がする。

最近、岩波講座の『現代物理学』に書かれた武谷・豊田の「原子炉」をちらちらとみているのだが、1944年くらいの段階では上に述べたような段階である。それは原爆研究の初期の段階にはちがいはないのだけれども、これはまた原子炉にもつかえるるくらいの初歩である。

それらの研究することから日本でもドイツでも原爆や原子炉の研究をはじめたのである。それはアメリカでも最初は同様であったろう。ただ、アメリカでは優れた研究者を大勢動員できたし、経済力とか技術力もあった。そこがドイツや日本と違うところであった。










77回目の誕生日

2016-05-26 10:57:45 | 日記
が近づいて来た。明日にはアメリカのオバマ大統領が広島を訪問するという記念すべき日になる。この日が誕生日である。
戦中は、海軍記念日が誕生日だといわれたものだが、そんな記念日を知っていたのは私の上司の教授くらいであり、E大学に勤めるようになってすぐに上司となった A 教授からあなたは海軍記念日に生まれたのですねと言われた。A 教授は横須賀の海軍工廠に勤めておられた技術大尉であった。

広島に話を返すと原爆の製造に従事したことのある物理学者のFeynmanも1953年の理論物理学の国際会議の後だったかに広島に来たという話である。

もっとも彼の広島の感想がどうであったのかは聞いたことがない。Feynmanが二番目の奥さんと結婚していたときだったらしく宮島を訪問したおきに厳島神社の海にある回廊のそばにある灯篭か燈明おきについてなかなか詳しかったとは S 教授から聞いたところである。

エジプト学か東洋学だかを専攻したなかなかインテリの奥さんだったらしいが、Feynmanとはうまくいかず長く続かなかったらしいことはFeynmanの自伝からわかる。