を女優の吉永が小百合さんがして、それに音楽家の坂本龍一さんがピアノの伴奏をしたと先日新聞の記事で読んだが、今日の朝日新聞に詳しい記事があった。
吉永さんが広島や長崎で詩の朗読をしていることは知っていたが、坂本さんがそれにピアノの伴奏をしているとは知らなった。もっともピアノの伴奏は今回がはじめだったのかもしれない。
「母と暮らせば」という長崎の原爆で亡くなった母と息子の物語の映画を妻と二人で見に行ったのはいつだったのだろう。これは亡くなった作家の井上やすしさんの戯曲『父と暮らせば』の長崎版にあたるが、井上さんが生前にこの戯曲を書くことができずに亡くなった。
そのことを聞いた映画監督の山田洋次さんがつくった映画で、二宮和也扮する息子と吉永さんが演ずるお母さんの幽霊とが暮らす話である。息子は山田洋次さんが卒業した山口高校に在学していて、長崎の原爆の被ばくを免れるが、お母さんは長崎の原爆で亡くなってしまう。
そのお母さんの幽霊と一緒に長崎で暮らすという話である。その映画の音楽を担当していたのが、坂本龍一さんであった。
今日の朝日新聞では吉永さんが朗読している英語の詩のいくつかも出ていたが詩人の峠三吉の名前が「とうげさんきち」とふりがながついていた。私なども「とうげさんきち」と読んでいたのだが、昔、見た詩には『とうげ「みつよし」』とフリガナがあったような気がするが、いつから「さんきち」に落ち着いたのであろうか。もっとも「みつよし」と読むなどと知っている人の方が少ないだろうか。
カナダの詩の朗読はUBC (Unviersity British Columbia)で行われたという。ここは長い期間だったどうかは知らないが、加藤周一さんが教えておられた大学でもある。
坂本さんは英語を話すので、英語でスピーチもした。吉永さんは英語を話すかどうかは知らないが、彼女もスピーチをしたと記事にあった。
原水爆のみならず原発を含めた原子力と人間の共存が難しい時代になっているので、そういう趣旨がこの朗読会にはあるらしい。
福島第一原発の事故以来、急に原発との共存を含めて原子力と人類の共存が原理的に困難だということを社会科学のテーマとしてそれを社会主義が許してきたと非難する本まで出てきた。たとえば、加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波書店)などである。
それをいうならば、社会主義以前に資本主義が原発の安全神話をまき散らしたことを断罪しなくて、日本の社会のなかではまだまだ非力な社会主義に罪をきせるのはいかがなものかと思う。もともと断罪すべき目標が間違っているのではないか。もっとも強力な相手と戦うと自分の生きる道まで危うくなってくるから、そんなことをしないお利口さんたちなのであろうか。
そういう気持ちが私などは強いので、加藤さんの所論にはにわかに賛成できない。ましてや、初期から日本での原発の危険性に言及してきた武谷三男を非難するなどとは社会科学者の風上にもおけないと思う。もっともこの本の後の方では少し評価を修正してはいるようだけれども。
唐木順三だとか伊藤康彦の尻馬に乗る態度は見苦しい。伊藤康彦の所論は詳しい検討が必要だが、特に唐木などのような単に時流に乗ることだけが上手な者の尻馬に乗るのは自分の品位を下げるだけだ。
いずれそれについては所論をどこかにまとめたいと思っているが、さてそんな時がくるのだろうか。
吉永さんが広島や長崎で詩の朗読をしていることは知っていたが、坂本さんがそれにピアノの伴奏をしているとは知らなった。もっともピアノの伴奏は今回がはじめだったのかもしれない。
「母と暮らせば」という長崎の原爆で亡くなった母と息子の物語の映画を妻と二人で見に行ったのはいつだったのだろう。これは亡くなった作家の井上やすしさんの戯曲『父と暮らせば』の長崎版にあたるが、井上さんが生前にこの戯曲を書くことができずに亡くなった。
そのことを聞いた映画監督の山田洋次さんがつくった映画で、二宮和也扮する息子と吉永さんが演ずるお母さんの幽霊とが暮らす話である。息子は山田洋次さんが卒業した山口高校に在学していて、長崎の原爆の被ばくを免れるが、お母さんは長崎の原爆で亡くなってしまう。
そのお母さんの幽霊と一緒に長崎で暮らすという話である。その映画の音楽を担当していたのが、坂本龍一さんであった。
今日の朝日新聞では吉永さんが朗読している英語の詩のいくつかも出ていたが詩人の峠三吉の名前が「とうげさんきち」とふりがながついていた。私なども「とうげさんきち」と読んでいたのだが、昔、見た詩には『とうげ「みつよし」』とフリガナがあったような気がするが、いつから「さんきち」に落ち着いたのであろうか。もっとも「みつよし」と読むなどと知っている人の方が少ないだろうか。
カナダの詩の朗読はUBC (Unviersity British Columbia)で行われたという。ここは長い期間だったどうかは知らないが、加藤周一さんが教えておられた大学でもある。
坂本さんは英語を話すので、英語でスピーチもした。吉永さんは英語を話すかどうかは知らないが、彼女もスピーチをしたと記事にあった。
原水爆のみならず原発を含めた原子力と人間の共存が難しい時代になっているので、そういう趣旨がこの朗読会にはあるらしい。
福島第一原発の事故以来、急に原発との共存を含めて原子力と人類の共存が原理的に困難だということを社会科学のテーマとしてそれを社会主義が許してきたと非難する本まで出てきた。たとえば、加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波書店)などである。
それをいうならば、社会主義以前に資本主義が原発の安全神話をまき散らしたことを断罪しなくて、日本の社会のなかではまだまだ非力な社会主義に罪をきせるのはいかがなものかと思う。もともと断罪すべき目標が間違っているのではないか。もっとも強力な相手と戦うと自分の生きる道まで危うくなってくるから、そんなことをしないお利口さんたちなのであろうか。
そういう気持ちが私などは強いので、加藤さんの所論にはにわかに賛成できない。ましてや、初期から日本での原発の危険性に言及してきた武谷三男を非難するなどとは社会科学者の風上にもおけないと思う。もっともこの本の後の方では少し評価を修正してはいるようだけれども。
唐木順三だとか伊藤康彦の尻馬に乗る態度は見苦しい。伊藤康彦の所論は詳しい検討が必要だが、特に唐木などのような単に時流に乗ることだけが上手な者の尻馬に乗るのは自分の品位を下げるだけだ。
いずれそれについては所論をどこかにまとめたいと思っているが、さてそんな時がくるのだろうか。