世の中のことはなにもわからない、などと私がここで述べたら、お前はちょっと気が狂ったかと多分言われるであろう。
これは昨夜のNHkの「知恵泉」で取りあげられた大村益次郎の言った言葉だという。益次郎は長州藩のある小さな村の医師の家に生まれた。
そして、大阪の緒方洪庵が営んでいた適塾の塾頭となるが、ちょっと変わった変人と思われていたらしい。そして父に言われて自分の村に帰った医師になったという。腕は確かだったらしいが、風邪を引いた人がいても寝ていればなおるという風であまり親切な医者ではなかったらしい。
自分で宇和島藩に売り込んで藩医となるが、黒舟をつくってほしいと藩主に言われて、本などはたくさん提供されるが、それらはひもとかず、長崎に行って実際にオランダの軍艦に乗り込んで視察し、分からないことがあれば、納得がいくまで質問したという。その3か月で黒船を知り、それから宇和島に帰って書物を読んで設計図を引いたという。
藩主に従って江戸に出て、幕府の学校で教えていたが、あるとき長州の桂小五郎にリクルートされて長州藩に戻って藩の士官学校の先生になった。
そのころは藩の士官学校のテクストはオランダ語の本であったが、なかなかオランダ語を学生がマスター出来ず、学習意欲も上がらなかったので、日本語のテクストをつくったり、使ったりして効率を上げて士官の養成に励む。これが生きてきて、第2次長州征伐のときに10倍もの幕府軍を破って有名になったという。
その放送を見た後で、妻とスマホとかタブレットで山口県の大村益次郎の墓のある場所を探したりした。大村益次郎は明治2年に暗殺されて亡くなるのだが、日本陸軍の創始者だという。合理的思考の持ち主だったと言われている。来週の火曜日の夜に後編の放送がある。
これは昨夜のNHkの「知恵泉」で取りあげられた大村益次郎の言った言葉だという。益次郎は長州藩のある小さな村の医師の家に生まれた。
そして、大阪の緒方洪庵が営んでいた適塾の塾頭となるが、ちょっと変わった変人と思われていたらしい。そして父に言われて自分の村に帰った医師になったという。腕は確かだったらしいが、風邪を引いた人がいても寝ていればなおるという風であまり親切な医者ではなかったらしい。
自分で宇和島藩に売り込んで藩医となるが、黒舟をつくってほしいと藩主に言われて、本などはたくさん提供されるが、それらはひもとかず、長崎に行って実際にオランダの軍艦に乗り込んで視察し、分からないことがあれば、納得がいくまで質問したという。その3か月で黒船を知り、それから宇和島に帰って書物を読んで設計図を引いたという。
藩主に従って江戸に出て、幕府の学校で教えていたが、あるとき長州の桂小五郎にリクルートされて長州藩に戻って藩の士官学校の先生になった。
そのころは藩の士官学校のテクストはオランダ語の本であったが、なかなかオランダ語を学生がマスター出来ず、学習意欲も上がらなかったので、日本語のテクストをつくったり、使ったりして効率を上げて士官の養成に励む。これが生きてきて、第2次長州征伐のときに10倍もの幕府軍を破って有名になったという。
その放送を見た後で、妻とスマホとかタブレットで山口県の大村益次郎の墓のある場所を探したりした。大村益次郎は明治2年に暗殺されて亡くなるのだが、日本陸軍の創始者だという。合理的思考の持ち主だったと言われている。来週の火曜日の夜に後編の放送がある。