物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

バカだからです

2016-11-03 13:35:19 | 日記

もう一つ『図書』11月号から。作家・小野正嗣さんの「難民の傷跡を抱えた家からの呼びかけ」の1節から。

ある国際シンポジウムが終わったあと、ある小柄で瘦身の、顔中を白い髭で覆われた初老の教授が、ずっと会場でマイク運び係を務めていた日本人留学生に近寄ってきて、「マイクをずっと持ってたのに、なぜきみは発言しなかったの?」と冗談を投げかけてきたのが、そのきっけだった。「バカだからです」と即答すると、クロードは青い目を嬉しそうに輝かせて言った。「僕もなんだよ」

このことをきっかけにして小野さんはクロードの家に5年近くも暮らすことになる。その話はさておいて、小野さんとクロードとはどうフランス語で言ったのだろうか。この箇所を読んですぐには思いつかなった。

間違っているかもしれないが、ちょっと再現してみたい。

小野:Parce que, je suis b^ete. 「バカだからです」(パルスク、 ジュ スィ べーット)

Claude: Moi, aussi.  「僕もなんだよ」 (モア、オッシー)

とでもやりとりしたのだろうか。 


東海林太郎さん

2016-11-03 11:57:33 | 日記

岩波書店のPR誌『図書』11月号に作家・原田宗則さんが彼のお父さんの話を書いている。

彼のお父さんが中学校に入った直後にそのお母さんが病気で亡くなった。それで寂しかった原田さんの父は町の図書館に行ってみた。満州(中国東北部と表すべきか)の鉄嶺の町の図書館だった。中に入ってぼんやりと本の背中を眺めていたら、貸し出しの受付に座っていたお兄さんが声をかけてくれた。『きみ、どんな本を探しているの』・・・こう丸い、ロイド眼鏡をかけていてね、ハンサムな人だったよ。・・・そしたらそのお兄さんが一冊本を選んでくれてね。『これを読んでみたまえ』と言って渡してくれた。選んでくれた本は覚えていないが、その本がおもしろくて、その後、次から次へと本を読むようになった。

その後、原田さんのお父さんは昭和二十一年(1946年)かに、本土に帰国する。そして郷里の長野に住むようになる。そして、あるアルバイトの帰りに一枚のポスターを見かける。それには来る何月何日、公民館で音楽祭が催されます、という。・・・驚いたことに出演者の中に、知った名前があった。・・・「それが満州の図書館で本を勧めてくれたお兄さんの名前だったんだ」

「もしかしたら、と思って、僕はその音楽祭に行ってみたんだ。だけどものすごい客でね、会場には入れなかった。仕方なく外でずっと待ってて、終わった頃に楽屋を訪ねてみたんだ。そしたら、やっぱりあのお兄さんだった。僕のことを覚えていてくれて、向こうから

『おお、直ちゃんじゃないか!無事だったか』って声をかけてくれたんだよ。嬉しかったねえ。別れぎわに僕の手を握って、『直ちゃん、本をたくさん読めよ』って言ってくれたのを覚えているよ」

「誰なの?その人の名前は?」

「うん・・・東海林太郎(しょうじたろう)っていう人だ」

こういう話である。

私が東海林太郎という名前を聞いたのは子どものころに母から聞いたと思う。それで原田さんのお父さんの話がいつのころか気になった。wikipediaによれば東海林太郎は1898年の生まれで、1923年に満鉄に入社しており、1930年に退社している。鉄嶺の図書館に左遷されたのは1927年のことだという。図書館に勤めていたのは1927年から1930年くらいのことであろうか。プロの歌手としてデビューしたのは1933年であり、「赤木の子守唄」が空前のヒットをしたのは1934年のことだという。また1972年に死去している。

私の母が東海林太郎のことを知ったのは多分この「赤城の子守唄」が有名になったことによるだろうから、ちょうど母と父との結婚前後のことになるだろう。私の世代だと辛うじて東海林太郎という名前を知っている世代となろうか。

ちなみに東海林太郎が鉄嶺の図書館に左遷されたのは、マルクス主義的な論文を書いたためらしい。歌手として有名だった東海林太郎の隠れた一面を知ったエッセイであった。