ロボットが東京大学の入試をクリアできるかというAI の研究者のプロジェクトがあるが、どうもAI搭載のロボットは東京大学の入試をクリアできそうにないということになって、このプロジェクトを終えることにしたらしい。
コンピュータは知識を覚えることはできる。そしてその知識から判断できることは答えることができるが、もっと知的な判断を要することに答えることができそうにないという理由かららしい。AIの限界を知ったということらしいが、AIがもっと進む可能性はないのだろうか。
AIがらみの話題では将棋の羽生さんがAIの考え出した将棋の指し手にはどうしたら思えつけるのかわからないようなすごい手がときどきあるが、それを人間が学習しようとしても学習のしようがないと述べていることである。コンピュータの中はブラックボックスであるので、どうしたらそのようなすごい手を考えつくのか人間が学習しようがないとのことである。
AIが、進んだディープラーニングで将棋のすごい手を考え出したとしてもそれを勉強して将棋の新しい戦術を考えようとする人には役立たないとは皮肉なことである。
AIの考え方とか理解のしかたを大ざっぱにでも人間がフォローできないのなら、それの意味は少し減じるということでもあろうか。そういえば、難しい難病の治療法をAIが見つけたとか先ごろに話題になった。これなどは人間の気のつかなかった治療の可能性を見つけてくれたということで人類に貢献したことになろうか。これだって後追いかも知れないが、人間がAIを理解できないとやはり人間である医者の間で論争が起こってその治療を採用する医師もあれば、そのようなAIの治療法を否定する医者も出てくることだろう。
そうなるとやはりかなり面倒なことになる。しかし、AIの出した治療法の可能性を等しく意義があると人間の医師の間で認められるようになれば、医学の進歩に寄与することはまちがいがないが。
武谷三男の指摘するようなある種の実体論的モデルとかがコンピュータの中でつくられないで、本質的な認識ができるのかどうかについて関心をもっているとは前にもこのブログで書いたことだが、コンピュータはそのような思考なしに本質論的な認識に達することができるとすると機械学習はおもしろいことになる。
だが、それを人間が理解しようとすると実体論的モデルを一度経由して本質論に至るというふうになるのであろう。人間がAIを学習するという時代が到来したのだろうか。