物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

校正の必要性

2016-11-05 11:51:56 | 日記

先日、論文の校正が来て、はじめほとんど校正する箇所はないと思っていたが、元の原稿を印刷所の方でチェックを入れてくれており、それを見ると元の原稿に細かな助詞が抜けていたり、また余分の文字が消し忘れていたりしていたことに気がついた。

原稿は何度も読んだはずだが、それにしてもこういうことが起こる。私の原稿の読み方のあまさに驚かされる。もっとも原稿の青鉛筆のチェックのお蔭で校正刷ではあまりもうミスは残っていないだろう。

時間が経って、別刷を手にいれて読んでみたりすると表現のまずさが見えたりする。なかなか完璧にはいかないものだ。『四元数の発見』(海鳴社)を出版したときには編集者が原稿を読んでくれてそのお蔭でミスは少なくなったが、それでも時間が経つと結構のミスプリに気づかされる。

ずっと以前に『数学散歩』(国土社)という書を出したことがあるが、編集者から編集料としていくらかの額をとられたと思うが、一字もここは間違っているのではないかという指摘も受けなかった。まあ、このときは自費出版だからしかたがなかったかもしれない。それに数学の式の間違っているところの指摘もまったくなかった。もっとも数学には疎い編集者だったのだろうから、指摘がなかったのもしかたがない。

いずれにしても校正が必要なことは言をまたない。


年々再々花相似たり

2016-11-05 11:35:40 | 日記

「年々再々人と同じからず」とかいうが、私たちの知人・友人も亡くなる人がおられて、少しづつではあるが、変わって行く。ある弁護士さんのお母さんで私たちが存じ上げていた方も亡くなっていたことを知った。

この方は書道の先生であったが、亡くなられたという。そういえば、京都南座に新春に歌舞伎をバスで何回か見に行ったときにお元気に一緒に行った H さんもいつの間にか亡くなられていた。ときどき県民文化会館のロビーでお見かけしたり、春の花見の季節には石手川の畔のベンチの近くでお見かけしたりした。

演劇とかの文化の芽を絶やさないようにというご意見の持ち主であった。歳をとられても姿勢の正しい凛とした感じの方であった。

私の近所の M さんが亡くなってからでも数年が経つ。妻がいつも一緒に車でどこかに出かける時にはご一緒した。体の健康はごく晩年までよかったが、軽い認知症を患われておられた。それでも不死のようにさえ思われた方でもやはり亡くなるということがある。

生死は人の常とはいえこういうことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこかに