日本経済新聞に載っていた記事をコピーして T さんが知らせてくれた。それは「読み、書き、数学」題するエッセイであった。
そのエッセイには、のっけからこんな問題が載っている。「船上に26匹の羊と10匹のヤギがいる。このとき、船長は何歳でしょう?」
これは40年前に、数学教育を専門とするフランスの研究者がこの問いを小学校低学年の子どもたちに投げかけた。すると、大多数の子どもが「36」と答えたという。
このエッセイはもっと続くのだが、これは数学教育の良し悪しの問題なんだろうか。そこが問題なのではなかろう。
まず大人は「子どもである私たちに真面目な問題だけを出す」という前提があるのであり、それを疑わせるような問いを大人がするはずがないという前提を子供は持っていることが原因かもしれない。
そうだとすると、羊の26匹とヤギの10匹は船長の年を推量する何らかのヒントなのではなかろうかと子供が考えていたとしても不思議ではない。
そうだとすると、単に問題から出てくるはずがない船長の年齢との因果関係があるのではなかろうかと推量して36歳と答えたのかもしれない。単に数学教育の問題にとどまらないことになる。
そういう問を出したときに、「疑問があれば問いを出した人に質問することが許されているのか」だとか、そういうことも気になるところである。「そういう前提があるのかそれとも問答無用に答えを求めているのか」。そういうところも気になる。
およそノンセンスな問いを出す大人の存在を普通の子どもは予想していないだろう。すなおな子どもは意味がある問いだとして、一生懸命に考えてその問いに出てきた羊とヤギの数をたしたのかもしれない。これはもちろん、数学以前のことであるが、そういうことだって考えねばならない。
私の研究している、武谷三男は「人から嘘をつく権利を奪ってはならない」と主張して、多くの人から非難をされたが、ウソを平然とつくのは政治家のならいである(注)。だが「人からウソをつく権利を奪ってはならない」と主張するときに、武谷は人には政治家は含めていないはずだ。その政治家のウソを見ぬく賢明さが人々には必要とされるということでもある。
また、政治が人を抑圧するとき、人は生き延びるためにウソをつくこともあろう。それを私は必要な生活の権利だと思う。ただ、それで他人の権利とかを大幅に侵害しないことは最低限として必要であろう。
この冒頭の問題とは無関係だが、世間にはまったく意味のない問いというのがときどきある。そういう問いで、意味がありそうに見えるものとして人生の目的はとか、生きる意味は何かというようなものがある。そういう問いは宗教とかの中で問われることが多いものだが、そういう問を出すことは無用ではないかもしれないが、私に言わせれば、そういう問いをまず出すべきではないという考えである。
もう70年以上生きて来て、そういう問いに答えることができるとは思わない。だからそういう問いをまず出すべきではないというのが私の考えである。その答えに答えられなくても、人生は生きるに値するし、また生きられる。人生とはそういうモノである。
(注) その具体的な例は2020年に東京でのオリンピックを誘致するためにリオで演説をして、福島の原発事故は完全にコントロールされていると述べた安倍首相である。