物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Alles ist verg"anglich, was auf der Erde ist.

2019-03-11 11:47:46 | 日記

Alles ist verg"anglich, was auf der Erde ist.(この地上にあるものはすべてはかない)とは3月のNHKの「まいにちドイツ語」のテクストに出ている文句である。この文はこの順序で言われるのが普通であろうが、Alles,  was auf der Erde ist, ist verg"anglich. といってもよいだろう。もっともそれだと主語がでっかすぎるので、冒頭の言い方が好まれると思う。

このテクストを書かれた講師の藤井明彦先生は日本人だから、ちょっと仏教的なフレーズを入れられたのであろう。それにこれはドイツ語の文法的にいえば、副文の定動詞後置を示すのにいい例であろう(注)。

そういえば、先日の朝日新聞に「持ち家だが、私は地球の一時の住民」だという意味の俳句があった。これは漢籍の古典にある「月日は百代の過客にして、行きかう人もまた旅人なり」とかもそうであろう。そして、この句は芭蕉の『奥の細道』の冒頭の文句としても引かれている。

「はかない」と書いて、なんだかこれに対応したフランス語を知っていたはずだと思いついたが、それがなんだったか思い出せなくなっていた。しかたなく、和仏辞典で「はかない」を引いてみて、それがephemereであったことを思い出した(アクサンをつけることは失礼している)。いつかのブログでも書いたが、これはまず英語で知った語であり、物理学者のF. J. Dysonの論文選集ではじめて読んで知った語であった。

もっともDysonは、数学の論文は未来永劫に真であるが、物理の論文は短命ephemeralであるという意味に使っていた。というのは彼は数学者でもあり、物理学者でもあるから、当然のことながら数学の論文と物理の論文を書いている。

(注)ドイツ語では主文(Hauptsatz)と副文(Nebensatz)という用語が使われる。英語ならば、副文は条件節とか関係節のことである。副文は単独では文を完結させない。主文のなかで使われてこそ意味がある。副文の特徴は定動詞が文章の一番最後に来ることである。これは実は英語にも残っている。

定動詞とは、主語に応じて人称変化する動詞のことである。主語の人称に応じて変化する前の動詞の形を不定形とか不定詞という。英語なら、動詞の原形というところである。

ちなみに節(clause)とは主語と動詞を含む英文のことである。しかし、もちろん節だけでは文は完結しない。あくまでも節は文の一要素にしかすぎない。また文の一要素としては句(phrase)があるが、これはもちろん文章の一部の構成要素だが、主語と動詞を含まない。そこが節とは違うところである。

ついでに付言すると、数学教育協議会の数学教育では等式変形において、フレーズ型式変形とかクーロズ型式変形と言われる用語がある。今これがなんであったかは、よく思い出せないが、方程式の式変形と恒等式の式の式変形の違いを意識させる話と関係していたと思う。もっとも恒等式でもその中のある量について式を解くという、「主格変換」の場合にはクローズ型の式変形が使われる。

もっともこれらはjargon(専門用語)であろう。


3月も半ばに

2019-03-11 10:53:54 | 日記

3月も半ばになった。時の流れは早い。先日新しい年が来たと思ったのに早くも3月も半ばである。

3月は学期休みなので、木曜日の夜のドイツ語のクラスもなく、先生のR氏も奥さんとドイツへお里帰りしている。とはいっても彼にとってはもうお母さんも亡くなっているし、弟さんは健在だが、以前ほどの望郷の念は深くはなかろう。

それに彼の場合は言語学の関係の会議で話をするために帰るのであり(それも4か所で話をすると聞いた)、ただの物見遊山ではない。ただ、私などはR氏にはわるいが、ドイツ語のクラスがないときは自分の仕事ができるときだと思っている。

それでも4月になれば、新しいドイツ語のクラスが始まるのもそう遠い先のことではない。2月7日に冬学期のドイツ語のクラスの後で、市内のカフェー「アマンダ」でR氏とか、世話役のO氏とかと少し話をした。普段はだいたいその学期の打ち上げ会がおわると二次会には付き合わないですぐに帰宅するのだが、このときはR氏が気を使ってくれたので、つき合うことにした。これはこの打ち上げ会のときに、私がほとんどしゃべらなかったのを彼が気にしたのであろう。

打ち上げ会の後は日本語は使わず、カタコトのドイツ語を駆使しての会話がほとんどである。

ところで、そのカフェーには大学の試験期間中とのことで、多くの学生が試験勉強で来ていた。帰りに隣に座って勉強していた学生の本のタイトルをよく見せてもらったら、解剖学なんとかとあった。眼の悪い私がちらっと見たら、解という字が見えたので数学の解析学の本かと思ったので、失礼ではあったが、きちんと見せてもらったのである。

普通は若い人に対してでも、そういう失礼なことはするものではあるまい。しかし、解という字が見えると「解析学」かと思うのはある程度、自分の専門から言ってしかたがない。それにしてもお粗末な次第であった。

私などは試験勉強は家で一人でするものと思っていたので、最近の学生のトレンドにはびっくりした。