物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

新しい発表誌をつくるか

2009-09-12 11:39:37 | 数学

3ヵ月に一度の割合で発行されるはずだった「研究と実践」(愛数協)がこのところ滞っている。それで私の投稿した数学関係の原稿が何通も編集者のデスクで眠っている。あるものはもう一年以上も眠っている。

一つの原因は私の原稿のレベルが小学校のレベルとはとてもかけ離れているからである。とはいっても世間の数学のアマチュアレベルでそれもあまり難しいことは扱っていない。高々数学専攻でない理工系の人が日ごろの計算で使うくらいの程度でしかない。

私の原稿が編集者のデスクに眠っている理由は小学校や中学校の先生方の研究や実践の原稿がないと「研究と実践」を発行しないという編集者のS先生の編集方針のためである。この方針に特に反対なわけではないが、かなりたまった原稿の発表時期が遅れてしまうので、私的な発表誌をつくろうかと考えている。

印刷費とかその雑誌(というほどのものでない)の送料の費用がかかるが、それは全部自費でまかなえばよい。それに部数は少部数で興味とか関心をもってくれそうな知り合いの人にだけ送るのだから、はじめは10部以下でもいいだろう。印刷は自分のパソコンで印刷すればいい。午後にN先生にこの計画を話して寄稿をしてくれるかを聞いてみよう。

(2014.10.14付記)  この新しい発表誌は新関さんと私が発行している、『数学・物理通信』となっている。これはサーキュラーであり、メールで無料配布される。ただし、私がメールアドレスを知っている人に限られる。

もっとも、いまではインターネットで検索すれば、名古屋大学の谷村先生のホームページにリンクされてある。だから、購読しなくてもいつでもバックナンバーを読むことができる。谷村先生ご尽力ありがとうございます。

彼が外国出張中でもなければ、サーキュラーが発行されると数日で彼のホームページの「数学・物理通信」のページに掲載される。

だから、メールで読まれている方よりもこの谷村さんのページで見られている方のほうがいまでは多いだろうと思っている。


信頼できるか

2009-09-11 10:57:45 | 日記・エッセイ・コラム

人とのつきあいで大事なことは「その人が信頼できるか」ということであろう。若いときに進歩的な主張をしていた人が歳を取ってまったく反対のことをいうのを見たりすると、その人の人格とはなんだったろうかと思う。

そういう人に限って自分の矛盾には気がついていないらしい。いや、もともと権力的であったのだろうが、権力をもたない若いときには反権力的な風をしていたりする。

「自分がやろう」と言い出したことをいつまにか引っ込めてしまって、他人にさせ、自分は逃げてしまって責任をとろうとしない人もいる。その人の能力のなさの問題なのか単なる意欲の問題なのかは知らないが、こういう痛い目になんどかあってきた。そういうことが何度か起こるとその人がどんなにいいことを言葉の上で言っても「またか」と思うだけである。

別に一般的な意味での人間不信に落ち入っているのではないが、こういうことを若いときには経験をしたものである。

私自身は徒党を組んだことはないし、組もうと思ったこともない。一人でいることに苦痛を感じない性質である。それが人とのつきあいを苦手にしてきたということもあるが、そういう欠点はあっても人としての独立を保ててきたことには感謝しなければならない。

どうもどこかで「できのいい人をスカウトしてきて、その人をおだてて働かせる」というタイプの人もいる。これがある場合に組織的であるとその組織は大丈夫なのかなと他人事ながら思ってしまう。そしてそういう組織は残念ながら本当に人々に信頼はされていない。


e-Learningのコンテンツ

2009-09-10 13:35:18 | 数学

e-Learningのコンテンツの作成を少しでも進めようとここ数日頑張っている。「代数」部分のコンテンツの残りをつくることとそれ以前に作成した箇所の演習問題の作成である。

下敷きにしている本には演習問題もあるのだが、演習問題はできるだけ物理の学習のときに出てくるような式を使いたいと私の昔の講義ノートとか物理演習の書を取り出してきて、その中の計算に出てくる計算を演習問題に使っている。

いつも演習問題が現実と離れた単なる演習に終始しているのではないかと思っているが、そういうことに気を使うと、なかなか気がつまる。下地にしている本の演習問題をそのまま使うことをよしとしないのだ。

もともと下敷きにしている本がアメリカで出版された本の翻訳で、物理とか工学とかの関連に気を使った本ではあるが、自分の経験に基づかないのはどうも気が進まない。代数のコンテンツの本文は9個の節をつくっているが、それに対して完全に演習問題をつけているのはまだ一つでいまやっと二つ目の途中である。今準備しているのは高校の1年か2年のくらいのレベルの代数である。

先日E大学の理学部でe-Leaningのコンテンツとその入力についてのワークショップがあった。その前半のどういうことが今までに行われているかの説明の時には私も出席して話を聞いた。そのときに私の関係しているところではWさんが報告をした。

その後で質問があってどこか国の機関でそういうことをe-Learingのコンテンツをすでに用意しているのではないかという質問があった。その発表の後で個人的にWさんから聞いたところではそういうコンテンツが既にあることは事実だが、その内容が十分でないということで各大学で独自にコンテンツが作られているというのが現状だとのことであった。

私たちのコンテンツの概要はあまり正確ではないが、インターネットを検索すればどこかにWさんのパワーポンイントが出ている。


政治偶感

2009-09-09 10:33:54 | 国際・政治

民主党が衆議院で多数をとったということで、最近はテレビに出てくる政治家がぐっとかわってきた。民主党の政治がどういうものになるのかというので民主党の政治家に話を聞くというスタイルの時間がニュース番組でも増えたが、今まで聞いたり見たりした範囲では意外に民主党は首尾一貫していてしっかりしているということである。

もちろん、皆が皆というわけではないのだろうが、一応主張は信頼してもいいと思われる。後は実際にどういうことをやれるかであろう。「民主党は頼りないから政権を任せられないなどと誰が言ったのか」という感じである。

実際の政治にはいつでもどこでも利害が対立するのでそう簡単ではないだろうが、しかし、政権交代の選択は今のところ間違っていなかったと判断する。

結局、一昨年の参議院での選挙があり、このときに与野党の議員数が逆転してそれまで知らされなかった政治の情報が流れるようになった。それで、どうも裏があっても国民は知らされていないのではないかという感じを国民がもってしまった。

昔から、「民には知らさず統治する」という考えが為政者の中には抜きがたくあったのだが、それをある意味で一昨年の参議院での選挙が打破してしまった。もうこうなると後戻りはできない。ということで今回の選挙結果となったように思う。

このブログは政治については基本的に取り上げないことにしてはいるのだが、例外も時には許されよう。


季節雑感

2009-09-08 10:50:40 | 日記・エッセイ・コラム

夏もようやく過ぎようとしている。朝方の最低気温が25度を下回るようになってきたので、しのぎやすくなった。昼の最高気温はまだ松山では30度を越してはいるが、そのときは必要ならばエアコンを使ってやり過ごせる。だが、最低気温が25度を越えていると一日中エアコンが欲しくなる。

それは経済的にもきついし、身体的にもよくないので、朝晩はエアコンの世話にならないようにしたい。だが、25度を越えているときにはまた湿度も高いので夜寝るときにもエアコンなしではすまなかった。

だが、最低気温が21度前後になってきたので、朝方はエアコンのお世話にはならなくなってきている。涼しいと感じる気温は湿度にもよるが23度くらいである。21度だと十分に涼しい。

もっともこれは現在では日にもよるが、空気の湿度が低い日などは気温が少し高くてもそれほどは暑く感じない。

今年はそうはいっても8月の強烈な暑さは少なかったように思う。例年では甲子園の高校野球の試合をやっている頃が夏の暑い盛りであろうが、今年は試合を見なかったせいか暑くは感じたことが少なかった。


ペイン・クリニック

2009-09-07 11:02:17 | 健康・病気

このごろは体のどこかが痛いと言ってもその箇所が痛さを感じているわけではなく、脳で感じているということが常識となった。痛さで病院にいってもどこも悪くないと言われてしまう。ところが本人には痛くてたまらないということがままある。そういうときは最近ところどころで開業しているペイン・クリニックで診療してもらうといいという。

これはいままでの通念を破ることだが、やはり医学の進歩であろう。ガンの終末治療等もガンの痛みをどうとるかが問題である。もちろんガンも人によってはまったく痛くない人もあるようだが、やはり一般的にいって痛いものであろう。それをどう緩和するか。死への心の準備と共に痛みの緩和は欠かせない。


ベータ崩壊

2009-09-05 12:36:05 | 日記・エッセイ・コラム

ベータ崩壊とは原子核から電子が飛び出してくる現象である。

だから、原子核の内部に電子が存在するのだろうと誰でも考える。昔の物理学者もそう考えた。だが、他の事実からどうも原子核の中に電子が存在するとおかしいということがわかってきた。

でも、現に原子核から電子は放出されるではないか。

こういう謎に直面して少しは自然の神秘を考えてほしいと思って、大学の授業でそのことを10分ぐらい考えてもらうというようなことをしていた。

その解をうまく考えてくれた学生は一人もいなかったが、その解決法はともかくとして自然の神秘の一端をどれくらい感じてもらえただろうか。

このことは以前にこのブログで取り上げたので、それを読んで覚えておられる記憶のよい方も居られるかもしれないが、物理学を学んでいない、大多数の方はその解が知りたいであろう。

答えをいうと原子核の構成要素の一つである、中性子が電子を放出して陽子に変わるときに原子核から電子が放出されるのである。

今日のメーンのテーマはしかしこのベータ崩壊のことではない。私はいつもこのブログのテーマを頭の中にもっていることは少ない。

パソコンの前に座ってそれから、いわば何もないところから、毎回のブログを書くのである。もっとも今日のテーマはもちろん即興ではないが、大抵の場合には即興である。

これはまるで原子核がベータ崩壊を起こすようではないか。

(2014.2.4付記) 即興ということでいうとJazzは基本的に即興で演奏するということをその後に知った。もっともお決まりの部分もあるとかとも聞いたが、詳しいことは知らない。

Jazzは即興演奏(improvisation)が基本だとはいうが、それでもまったく演奏者になにもなければ演奏することはできないだろう。だから、いつでもいくつかのストックが演奏者にあるのではなかろうか。

もっともそれが演奏者に意識されているかどうかはわからないのだが。

これは音楽には全く疎い者が勝手に想像しているのだから、本当はまったく話がちがっているかもしれない。そんな事情を知っている人がいればいつか話を聞きたいものである。


不確定性関係

2009-09-04 16:26:40 | 物理学

不確定性関係と量子物理学でいうと例えば電子の位置と運動量とを同時に任意の精度まで詳しくは測定できないという関係である。

これを不確定性原理という人もあるが、私自身は山内恭彦さん(元東大教授)にしたがって「不確定性関係」と言っている。

これは互いに正準共役な物理量である位置座標xと運動量p_{x}との間の交換関係 xp_{x}-p_{x}x=ih/(2\pi) が成り立てば、数学的に導かれる。それで山内先生はこれは「原理」ではないという意味で不確定性関係と言った。

以下の話は変わって、「わかりやすさ」とは何かということである。

S先生という少し古風な数学の先生が居られたが、そのS先生の書かれた「微分方程式概論」(槇書店)は懇切丁寧に書かれた微分方程式の本である。

この本に書かれた微分方程式の級数による解法は自分で鉛筆をもって計算しないでも分かる程度に詳しく書かれている。だが、その計算はあまり見通しがいいとは言えないのだ。

同じことを扱ったK先生の本の該当箇所を読めば、計算等は自分で鉛筆を取ってやってみなければならないが、なんだかとても見通しがいい。

K先生はS先生よりは若くて現代的な数学の感覚をお持ちだということもあるのだろうが、「わかりやすさとは何か」ということを考えさせられた。

もう一例を挙げよう。

秋山武太郎という有名な数学の先生が居られた。彼は「わかるーーー」というシリーズの本を出されている。それらは現代でも出版されている名著である。

その一冊である「わかる三角法」という本も確かに数字を使い、具体例をたくさん挙げている。懇切丁寧なことこの上もない。ところが、そのために私にはかえって分かりにくく感じられる。

懇切丁寧に解説することが本当にいいことなのだろうかという疑問である。あまりに丁寧に解説するとそのために話の筋とか見通しが悪くなるということが起こる。

まるで電子の位置座標を詳しく測定するとその代償として電子の運動量の値の精度は位置座標の測定の精度に反比例して悪くなるように。

数学の本の「懇切丁寧な記述」とその「分かりやすさ」とには不確定性関係とは論理的には関係がないが、比喩的に不確定性関係に似たようなことが起こると思われる。

しかし、それにしても「わかりやすい」とはどういうことなのか。


イチロー

2009-09-03 12:25:08 | スポーツ

イチローは9試合を休んでいたが、復帰をしたら2試合続けて複数安打だという。このような人がいるということがどれくらい人々に勇気をあたえていることだろう。だが、彼自身はいつも冷静である。

類まれな素質があるのだろうが、それだけではなかろう。もともとの心がけもいいにちがいない。いつだったか若い頃からグラブとかバットのような野球用具を大切に扱っているとテレビで見た。それは誰かに教えられたこともあるだろうが、それだけではなく自分自身で考えて工夫しているところもあるに違いない。

大リーグでの2000本安打に7本、9年連続の年間200本安打に12本と迫ったとニュースで見た。記録が何の支障もなくつくられることを願っている。特に後の記録は人類史上初の記録となる。


ひらめき

2009-09-02 11:00:05 | 学問

「俳句第二芸術論」などで知られた仏文学者の桑原武夫は人の仕事を評価するのに「ひらめき」が見られるかどうかで判断をしたという。これは鶴見俊輔が「源流から未来へ」(思想の科学社)で語っていることだ。

桑原を武谷三男はあまりよくは思わなかったそうだが、桑原は武谷三男の仕事をその「ひらめきがある」という点で高く評価していたという。それに対して仏教学者の中村元の仕事をそのひらめきがないという理由で評価しなかったという。一方、鶴見はその中村を評価している。鶴見は人の仕事をひらめきだけでは見ていない。

ところで急に私自身のことで申し訳がないが、私自身はまったくひらめきがない。ものごとはすぐには理解できないし、なんでも理解するのに時間がかかる。場合によっては何十年もかかる。

それが難しいことなら理解に何十年もかかっても仕方がないのだが、簡単なことでもすぐには理解できないのであるから始末が悪い。だが、そういうひらめきがないから、徹底的にわかりたいという欲求がとても強い。私は自分のひらめきのなさから他人が「どうやってひらめいたのか」の秘密を知りたいと強く思うのだ。

高校のときに学んだ三角関数の余角公式、補角公式、負角公式等はどのように導出したかがこのごろ急に気にかかりだした。それでここ数日それについての高校の数学参考書や数学書を読んでみた。やっとhow toでない理解ができつつある。

「それらを導くときにはどうしたらいいか」のhow toはもちろんもう50年以上前に学んで知っているが、その理由を改めて勉強をしている。現在作成をしているe-Learningのコンテンツに最近知ったことをどれくらい反映できるだろうか。


女性議員

2009-09-01 11:01:57 | 国際・政治

今回の選挙で女性議員が40名くらいに増えたという。それでもヨーロッパ諸国にはまだはるかに及ばないのだという。日本では今では死語になってしまったかもしれないが、頼りないものとして「女、子ども」という語があるが、外国ではそうではない。

しかし、このごろの日本女性は元気であるし、また今度の選挙にしてもたとえ選挙に破れても「女性だからまあいいや」みたいな感じもあって(すみません女性議員さん、落選候補さん)、逆にもし選挙に通れば鬼の首を取ったように喜べる。

男性が元気がないのが悪いのかもしれないが、普通に男性の感じるプレッシャーを女性ということであまり感じずに済むというメリットは、女性を軽んじるわけではなくてあるのではないか。

世界的にも日本の女性の評価は男性に比べて高い。もっとも日本女性の評価が世界的に高いのは欧米の女性のあまりの強さに世の男性が辟易しているせいかもしれない。それだとあまり手放しでは喜べない。

ある知り合いの女子高生が昨年から今年の前半にかけてドイツの高校に留学をした。この方のおばさんにカナダ留学の経験のある方がいるとも聞いたので、そういう素質もあるのだろうが、それだけではなく、女性のどこにでもなじめるという特性からこういう私たちにとってえらく思い切ったと思えることができるのかもしれない。この女子高校生のお父さんとお兄さんにも一度会ったが、特に特別の感じの親子とは感じなかった。

もちろん、世の中にはある種の勇気を持った男性もいて、私たちにとって法外と思われる、チベット仏教を信じるようになる人までいる。この人は高校を出て北海道の牧場で数年間働き、その後に大学に入ったという。

数年後に大学に行きたいと思い出して、そういうことを周りの人に言ったら、ほとんど皆に反対されたという。それはそうだろう。高校を出たときに大学へ行ったほうがいいよとの助言を聞かないで牧場で働くことを選択したのだから。

そのうちにチベット仏教に帰依するようになったという。こういった勇気のある人は日本女性には限らないのであるが、日本人の場合には女性の方が多いような気がする。