桜が満開なのにその桜の木をチェンソーで切るという罰当たりなことを午前中にしてきた。
松山市来住町の愛媛医療生協病院の新築工事のために、いまほぼ満開の桜を数日中に始末してしまうというので、その桜の木から腰掛やこけし人形を作ろうという妻のアイディアから出たことである。
医療生協の活動仲間のKさんの夫君がチェンソー持参で駆けつけてくれた。チェンソーはすごい威力で瞬く間に数本の桜の木を切って、その幹から腰掛になりそうな素材を切り出してくれた。そしてその謝礼としては一食数百円の弁当が出ただけである。
私はその切り出された木の枝とか幹の一部とかを車で運ぶための要員として狩り出された。もし、桜に思いがあったとしたら、私たちはまことに罰当たりな行為をしたことになる。
E大学に勤めていたころ大学工学部の建物の建築のために何十年もかけて大きくなった木を切るというので、それをどこかに移植できないのかと尋ねたら、費用がかかって駄目だと即座に事務長にいわれた。
木が大きくなるのは何十年もかかるが、それを切り倒すのは簡単にできてしまう。
それも経費の観点からどこかに移植するなどということは一般にできない。そういうことを知っているので、感慨などはなくなってはいるが、そんなことでいいのだろうかと思ってしまう。
これは原発をつくるということとは自ずから異なっているべきであろう。原発はつくるのに一年くらいはかかるかもしれないが、それにしても数十年もはかからない。
もちろん建設してそれを使い続けることを考えると30年くらいは使いたいというのはつくった電力会社としては人情というものであろうが、しかし、それが原発事故等によって人間の生存を困難にするというのであれば、やめたいと思う人が出てきてもしかたがない。
それは木が何十年もかかって育つのとはまったく違う話であろう。確かに原子炉をつくってそれを動力として使うというアイディアはすばらしいものである。
原子力工学の初歩を大学の講義で教えなくてはならないという事態になってはじめて、フェルミの原子炉の理論を学んだときにはその考えに感心をした。
だからといって、原発が良いとはいえないと以前から思っているが、いま判断の難しい時期を迎えている。