物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

世界の常識、日本の非常識

2012-04-30 12:55:59 | 日記・エッセイ・コラム

この間、作家の高橋源一郎さんが世界の常識と日本での常識の違いを朝日新聞の論壇時評で書いていた。それがおもしろかったのでこのブログでも取り上げようと思っていたが、パソコンの前にすわったら、どうしてもこのテーマを思い出すことができなかった。今日は覚えているので書くことにしよう。

高橋さんの書いていた一番目は世界では大学入試がないということであった。これはちょっと注釈がいる。アメリカの制度はあまり知らないが、ヨーロッパでは大学入学資格試験がある。これは高校の卒業試験のようなものである。これに合格すると志望の大学に入れるかどうかは別にして大学へは入れる。フランスの制度はバカロレアといい、これに合格すると大学に入れる。

もっともフランスの大学でもグラン・ゼコールといわれるエーリト学校へは試験を受けなければならないが、それらはエコール・ポリテクニークとかエーコル・スペリュールとかのいくつかのエリート校のみである。

ドイツでは、この大学入学資格試験はアビテューアといわれるが、同じような制度である。ドイツでは大学の授業料は長年無料であったが、年間数万円の授業料を州によっては支払う必要ができたが、それでも日本の授業料と比べたらまだ、格段に安い。また、フランスでは大学の授業料はまだ無料だそうである。

だから、子どもの教育にかかる費用は日本ではかなり多い。高橋さんがどう書いてあったかはよく覚えていないが、日本では教育費はヨーロッパの2,3倍かかると書いてあったように思う。

それにこれは高橋さんの関心事とは違ったが、日本では人々が自分で家を持つという傾向が強いので、特に自宅を持つために生涯の所得の大部分をその自宅の収得に費やしている。

この教育と土地取得と自宅の取得にかかる額が大きく異なっているのだと、昔経済学者の方との勉強会で知らされたことであった。この両方とも国民性とかいろいろな考え方の違いから出ているので、すぐにヨーロッパのようになればいいとは単純にはいえないが、私たちの反省の材料にはなろうか。

高橋さんは学校に入学式が必ずしもないのだとも書いていた。アメリカの小学校では新入生のためにどこかの大きな部屋にチョコレートとかジュースとかの飲み物が用意されていて、日本式の入学式はないとか。日本では大学でも入学式や卒業式をするが、ドイツではそういう式はまったくないと聞いている。

日本では大学でも大学入学後にガイダンスとかオリエンテーションがあり、どういう風に講義を受けて単位をとるかの説明が詳しく行われる。それでももちろんまごまごする人もいるのだが、ドイツではVerzeichnisといわれる講義の名前と講義をする講師とか講義室の場所が書いてある本を買い込んで全部自分でどういう勉強を大学でするのかをすべて自分で組み立てると聞いている。

それで、はじめはなにもわからない、まったくのカオスであるが、そのうちにどのような仕組みなっているのか自然にわかるようになるのだとはドイツ人のR氏の言である。

そこらあたりが自分の自発性を最大限に生かす、西欧の習慣とどちらかというとある程度は型にはめる教育に終始する日本との違いであろうか。

日本でも、京都大学はかなり自由で講義に出るかどうかも単位のとり方も自由性があるのかもしれないが、他の大学ではそうも行かないであろう。

もっとも東京大学でも優れた学生は講義には出ないで、独学の方が多いのかもしれない。しかし、一部の優秀な学生を除く大部分の学生はある程度講義を聞いて勉強するのであろう。またそのほうが社会に出て使える学生を出すためにはそういう教育をした方が歩留まりがいいとの見解もあるらしい。

大学における卒業式はアメリカ映画等でみたことがあるような気がするので、アメリカでは卒業式をするのかもしれない。だが、ドイツでは卒業という概念がないらしい。もちろん何らかの分野の学問で学位をとって「いわゆる」卒業する学生もいるが、大部分はその前に国家資格等をとって大学から離れていく。

日本の大学の特に理工系学科では会社の求人担当の方の訪問を受けて、担当教授が学生の就職の斡旋をするのは普通であるが、そういうこともヨーロッパの大学ではまったくしないという。もちろん個人的に推薦状を書いたりいうことを指導教授がしないわけではないと思うが、基本的に職探しは自分でする。そこらあたりもまったく違っている。

私などもそう多い回数ではないが、2回ほど就職担当として働いたことがあった。