物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

花見は今年もなし

2012-04-09 13:17:35 | 日記・エッセイ・コラム

花見にはあまり縁がない。それで今年も縁がない。とはいっても昨日午後3時すぎに妻が花見にでも行きますかというので車で重信川河原をドライブをして、桜を楽しんだ。毎年それくらいで本格的な花見はなしである。

昨年だったかもう一昨年だったか私の仕事場で花見をかねて親しい友人と懇親会を開いたことはある。それはいつも雑談会のメンバーのうちでも特に親しい友人を呼んで、ワインとかビールとかの飲み会をしたのである。もっとも友人のTさんなどはビールコップ一杯ようやく飲める程度であるが、それでも彼は来てくれた。

他の人たちはそこそこ飲める人たちである。Sさんは数学者であるが、パーキンソン病を患っているので、あまり長くは私の仕事場に滞在できず途中で帰られた。今年は先週の金曜日に京都で大学の研究室の同窓生とか元スタッフが集まって懇親会が開かれたので、花見を兼ねた飲み会はできなかった。

京都は寒いから桜はまだかと思っていたが、琵琶湖疏水沿いの川岸には桜が満開であるとWさんが教えてくれた。このWさんは京都大学の湯川研究室のOBの方であるが、湯川研究室のOB会は20人くらいは集まるとのことであった。

4月7日(土)に駅に出るのに左京区岡崎から四条河原町まで歩いたが、確かにWさんの言われた通りに小さな疎水べりには確かに桜が満開であった。四条河原町から烏丸まで阪急で、烏丸から京都駅までは烏丸線を使ったが、二駅ですぐに着いた。

そして、15時過ぎには松山に帰り着いた。おみやげに久しぶりに京観世という菓子を買って帰った。

参加されなかった同窓生の近況では老齢のせいか、体調を崩しておられる方とかが多いような気がした。また亡くなった方々も数人おられた。同級生のH君だけではなく、G大学の先生をされていた、私より数歳年下のK君も昨年の夏に亡くなられていたことを知った。

彼はよくカナダのアルバータ大学に出かけてはそこで仕事をしていた。Capriという私と同年くらいの物理学者がいて、彼と親しかったらしい。Capriとは私は直接の面識はないのだが、Capriはこのごろ量子力学のテクストを出したり、演習書を出したりしていると思う。もうずっと以前だが、Capriが次年度の予算を前借してこのK君を呼んだということを聞いた。これはかなり異例のことだったらしく、アルバータ大学の物理ではそのことで評判がたったらしい。

このK君はhigher spinを修士の論文に研究テーマにしたので、生涯その周辺の研究をしていたのではないかと思う。とても体力のある方で徹夜で計算をして、間違いをほとんどしないというので、有名だった。万年筆で計算をするのだが、ほとんど書き間違いをしない。それでも人間だから稀に間違いをするのだが、そのときにはカッターナイフでその書き損じた字を削って書き直しをされていた。

このK君は人と飲み始めるときに1ダースのビールを脇において飲み始める。他の人がもう飲み疲れたときでもまだビールが1本でも残っていると、まだ1本残っているということで、それを飲み終わるまでは飲むことが終わらない。

いつだったか、このK君と一緒に友人のH君のホームタウンである、呉市に行ったことがある。街で食事をして、一杯飲んで気分がよくなったK君は路地を通りかかった車のドアを蹴飛ばしたりした。もっとも私の観察では彼はドアがへこまないように手加減、いや足加減をして車のドアを蹴飛ばしていた。

しかし、怒った若い運転手が降りてきて、つかみかかろうとしたが、このK君背が高くてごつい感じの男であり、それに彼はやくざかと見まごうぐらいに小指の先がなかったので、運転手の若い男性は恐れをなして黙って車で立ち去った。小指の先がないのは別にやくざのように指をつめたわけではなく、稲刈りのときに鎌でうっかり切り落としたのだと彼が言っていたので、私はそれを疑ったことはない。

その晩にはH君がまあまあと中に入ったので、ともかくもそれ以上の騒動には発展しないですんだ。ともかく、その後、数日後の大学でO先生にそのことを私は告げ口をしたが、そのときに彼は何らかの理由で寂しいのだと私の観察した感想を言ったら、O先生はしばらく「君はもう結婚もしているのに寂しいのかね」とK君をからかう種とされた。

後で、このK君のお父さんは戦争で亡くなれていることを知っているのかと彼と同級の別のK君に注意を受けた。そのころ彼のお母さんは存命中であり、かつ医師であることを後で知った。

いつだったか集中講義で彼をE大学に呼んだときに、私の家に泊めたことがあるが、「わはっは」と豪快に笑うのでまだ中学生だった、私の子どもたちが「わはっは・おじさん」と名づけて、いまでも「わはっは・おじさん」として我が家では通っている。

Oさん、H君、それにこのK君等は共に亡くなってしまって、私の記憶の中にしかいない。