物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

昨年の昨日には

2016-05-19 12:51:38 | 日記
心理学者のアドラーという人の説を紹介している。とはいってもそのごくはしりの部分だけだが。

それはどう生きるかは自分自身の問題であり、トラウマというものを存在しないとするか、存在するとしてもそれが主要なものではないという見方である。

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という文句に集約してもよい。確かに人に変われというのは言うのはたやすいが本当に変えられるのは自分だけである。

トラウマは存在するかもしれないが、それを乗り越える心がまえがあれば、トラウマ自身はそれほど大きな問題ではないのかもしれない。

自分の心掛け自体は自分で努力すれば変えられるが、他人にその人を変えることを要求して見てもなかなか変わらないものである。

自分の生き方・あり方を変えるという風にしたい。

矢継ぎ早に

2016-05-18 12:06:46 | 日記
数学・物理通信の6巻6号の編集を終えた。6巻4号、6巻5号および6巻6号のいずれの号も6月にならないと発行しない。これは発行の月を3の倍数の月にすると決めているからである。

のべつ幕無しに発行すると私は一年中何をしているのかわからなくなる。それである意味でメリハリをつけるつもりで3の倍数の月に発行する月を限っている。

投稿される方は自分で原稿さえ書けばいいが、発行するほうはそれだけではいかない。場合によっては原稿を修正してもらうこともある。

今度の6巻6号は著者と編集者の間でやり取りがかなり行われた。それで原稿をかなり修正してもらった。なんでもそのまま受け付けるのなら、こんなに簡単なことはないのだが、場合によってはそうはいかないことがある。

どうも編集者の見識を疑われるということに一般の読者から思われるようになると、サーキュラーの権威が失墜してしまう。そこらが編集者として苦しいところである。

自分にとって得意な分野だけではないから、それを読むのはある意味でハードなことである。時間もとられるし、できたらしたくはない。

それに著者も編集者からとやかく言われるのは心外でもあろう。だが、論文の審査をしないと銘打ってはいるが、どんな論文でも受付けるわけではない。おのずからそういう制約はある。

だが、著者と編集者が互いに最後には理解し合うことができるとなんだかさわやかである。理性をもった者同士なら、いつでも最後には理解しあえると思うのだが。

5次以上の代数方程式

2016-05-17 13:10:36 | 日記
は代数的に解けないということは知られている。

しかし、その証明はどういうものか私は知らない。そういう説明をした本は日本でも何冊か出ているらしいのだが、あまり関心がない。

ところが3次の方程式はその解は因数分解の公式を用いて解けることは知っている。その延長線上にあるような4次の方程式を解く公式を導くことをある高校の先生が「数研通信」に寄稿していた。読んだのだが、あまりよくわからなかった。

それとは別に金重明さんという作家の方が、「娘に語るガロア理論(?)」(岩波書店)とかいう本を出版されている。先日、その本を図書館の開架図書で見かけたので「はしがき」だけを立ち読みしてみた。

金さんは在日の方なので日本語が母語でハングルは外国語として学んだと書いてあったが、日本語で読んだガロア理論の本は理解できなかったが、韓国に留学して読んだ韓国語のガロア理論の本は理解できたということで、ガロア理論を中学生の娘に説明するというスタンスで書かれた本のようである。金さんは作家であるのに、数学が得意な方のようである。もっとも作家は数学を不得意なだどと決めてかかるのは私の偏見だろうか。

およそ代数方程式を解くとか、5次以上の代数方程式が代数的に解けないなどということにはあまり関心がないのだが、そういうことを説明した金さんの本を読んでみてもいいかなと考え始めている。

とはいってもやはりあまり食指が働かないのは私の性行からいってしかたがないが、普通の理系で数学とかが得意な方々なら、当然知っているようなことを知らないのも教養に欠けるかもしれない。

いまさらこの年になって教養に欠けるもなにもないものだが、死ぬまでにそういうことを知るのも悪くはないかなどと思っている。だが、実際にその本を図書館で借りて読むかどうかは自分でもわからない。

6巻5号の編集

2016-05-17 11:16:07 | 日記
が終わった。「数学・物理通信」の編集である。もっとも6月に発行予定のものであるから、まだ6月までは手元においておくのだが。6巻4号ももちろん発行していないが、これはすでに編集済である。

それに6月には6巻6号までの発行を予定している。最近投稿があった論文が30ページくらいなので、6月中に6巻6号には収録できないからさらに6巻7号まで発行するかもしれない。

もしそうなると、6月中に4つの号を発行することになるが、こういうことになるとすれば、いままでに類のないことになる。

だが、編集自体は一つの論文で一号を占める場合には面倒なことはない。論文がどしどし投稿されるということは編集者としてはこんなにうれしいことはない。

私たちの「数学・物理通信」は一号が約30ページという目安をもっているので、その制約内にはいればどうってことはない。メールで配布するサーキュラーなので、何ページになってもいいようなものだが、やはり30ページという制約はつけておきたい。

そこらへんが印刷して配布したり、市版したりする雑誌とはちがう。

人工知能を人間が

2016-05-16 12:20:51 | 日記
後追いしなくてはならない時代が来るのだろうか。

昨夜の NHK の「人工知能--天使か悪魔か」を見てそう思った。アルファー碁という AI ソフトが生身の人間のそれも現在最高の棋士と言われる韓国の イ 九段に5回対戦して4勝1敗であった。

そのときに対戦をテレビ中継していたときに解説の棋士が疑問の手または悪手とした手がその後の碁の手として生きてきたという。

そういうことだとやはり人工知能 AI が打つ手をそれがどういう意味を持つのかと人間が解釈しなくてはならないことになる。

それも AI は自分で自分の意図を説明したりはしないから、いきおい人間が AI はどういう風に考えたのかということを推察する必要が出てくることになる。

数の計算で電卓を使って計算するときにどうやって計算したかはあまり原理的に追求したいと思う人は今ではいないだろうが、不定積分をするときにどういう風に不定積分するかなどだったら、私などはどうやって不定積分したのか関心をもつ。

数式処理で大学の初年級で学ぶ不定積分の90%以上をいまではコンピュータの数式処理システムが解くことができるという。

それくらいなら、その中身を知ることの要求はあまりないかもしれない。だが、アルファ碁のように人間の最高の棋士と思われる人に圧倒的に勝つようになるとやはりそのときに AI がどのように判断したのかはブラックボックスであるコンピュータに聞いてくれだというのでは人間としてはおもしろくはない。

やはりそれは数学的処理をした結果だというだけでは人間は満足しないだろう。それを解釈して理解するしか道がないというのはちょっと情けないような気もするが、それでもそういう風に進むだろう。

以前のブログで書いたことがあるが、私は AI は問題解決するのに武谷の三段階論みたいな段階を経ないで直接に物事の認識をするようになるのかどうかということに関心をもっている。

しかし、それでも仮想的にコンピュータの中で一時的にたとえば実体論的な段階の認識をもつというのではないかと思っている。もっともそれはコンピュータの外の人間にはわからないので、突如としてディープラーニング(深層学習)中のくり返し学習において本質的な認識が現れるように思われるのではなかろうか。それだすると人間はやはり AI を外から解釈するという情けないことをするしかなくなるのだろうか。

そんなことを考えた昨夜の放送であった。









































































































































くにと国と

2016-05-14 16:11:21 | 日記
高橋源一郎さんが沖縄を訪れての記事「歩きながら、考える」が朝日新聞に載っていた。

その中に鶴見さんの文章の引用があった。それを私もどこかで読んだことがある。鶴見さんがアメリカに留学中に アナーキストとしての疑いで留置所に入れられていたときに、日本とアメリカの間で戦争が起こった。

敵性外国人であるので、日本に戻るかと聞かれて戻ると答えた。鶴見は戦争をしようとしている日本に反対していた。それでも戻ろうとした。

「同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうともその「くに」が自分のもとであることにかわりはない。(中略)この「国家」は正しくもないし、かならず負ける。負けは『くに』をふみにじる。そのときに自分も負ける側にいたい、と思った」

これと似た心境の言葉を私はハイゼンベルクの自伝で読んだことがある。彼も戦争前にアメリカに移住しないかと勧められたのにドイツへ帰って行った。

やはり鶴見と似たような考えだったに違いない。人はすべて利己的に考える人ばかりではない。すべてにわたって自分に不利だとか都合が悪かろうが利己的な道をとらないことがある。ただ、それだって後からもそのときも必ずしも自分にとって都合がいいわけではないのに。

ハイゼンベルクが戦後に彼はナチを信奉していただとか悪口を言われた。またそれは身内が迫害を受けて強制収容所で亡くなったような人から言われてもしょうがないところもある。そういう自分には不本意な点を知りつつもやはり自分だけの都合では生きない人がいる。

カナダで原爆詩等の朗読

2016-05-13 11:16:17 | 日記
を女優の吉永が小百合さんがして、それに音楽家の坂本龍一さんがピアノの伴奏をしたと先日新聞の記事で読んだが、今日の朝日新聞に詳しい記事があった。

吉永さんが広島や長崎で詩の朗読をしていることは知っていたが、坂本さんがそれにピアノの伴奏をしているとは知らなった。もっともピアノの伴奏は今回がはじめだったのかもしれない。

「母と暮らせば」という長崎の原爆で亡くなった母と息子の物語の映画を妻と二人で見に行ったのはいつだったのだろう。これは亡くなった作家の井上やすしさんの戯曲『父と暮らせば』の長崎版にあたるが、井上さんが生前にこの戯曲を書くことができずに亡くなった。

そのことを聞いた映画監督の山田洋次さんがつくった映画で、二宮和也扮する息子と吉永さんが演ずるお母さんの幽霊とが暮らす話である。息子は山田洋次さんが卒業した山口高校に在学していて、長崎の原爆の被ばくを免れるが、お母さんは長崎の原爆で亡くなってしまう。

そのお母さんの幽霊と一緒に長崎で暮らすという話である。その映画の音楽を担当していたのが、坂本龍一さんであった。

今日の朝日新聞では吉永さんが朗読している英語の詩のいくつかも出ていたが詩人の峠三吉の名前が「とうげさんきち」とふりがながついていた。私なども「とうげさんきち」と読んでいたのだが、昔、見た詩には『とうげ「みつよし」』とフリガナがあったような気がするが、いつから「さんきち」に落ち着いたのであろうか。もっとも「みつよし」と読むなどと知っている人の方が少ないだろうか。

カナダの詩の朗読はUBC (Unviersity British Columbia)で行われたという。ここは長い期間だったどうかは知らないが、加藤周一さんが教えておられた大学でもある。

坂本さんは英語を話すので、英語でスピーチもした。吉永さんは英語を話すかどうかは知らないが、彼女もスピーチをしたと記事にあった。

原水爆のみならず原発を含めた原子力と人間の共存が難しい時代になっているので、そういう趣旨がこの朗読会にはあるらしい。

福島第一原発の事故以来、急に原発との共存を含めて原子力と人類の共存が原理的に困難だということを社会科学のテーマとしてそれを社会主義が許してきたと非難する本まで出てきた。たとえば、加藤哲郎『日本の社会主義』(岩波書店)などである。

それをいうならば、社会主義以前に資本主義が原発の安全神話をまき散らしたことを断罪しなくて、日本の社会のなかではまだまだ非力な社会主義に罪をきせるのはいかがなものかと思う。もともと断罪すべき目標が間違っているのではないか。もっとも強力な相手と戦うと自分の生きる道まで危うくなってくるから、そんなことをしないお利口さんたちなのであろうか。

そういう気持ちが私などは強いので、加藤さんの所論にはにわかに賛成できない。ましてや、初期から日本での原発の危険性に言及してきた武谷三男を非難するなどとは社会科学者の風上にもおけないと思う。もっともこの本の後の方では少し評価を修正してはいるようだけれども。

唐木順三だとか伊藤康彦の尻馬に乗る態度は見苦しい。伊藤康彦の所論は詳しい検討が必要だが、特に唐木などのような単に時流に乗ることだけが上手な者の尻馬に乗るのは自分の品位を下げるだけだ。

いずれそれについては所論をどこかにまとめたいと思っているが、さてそんな時がくるのだろうか。


通巻を英語では

2016-05-12 13:22:06 | 日記
どういうか。インターネットの英和辞書で調べると、consecutive number of volumeとあった。その下の用例として

その雑誌は通巻100号に達した The magazine has come to its hundredth issue.

とあった。なるほどhundredth issueというのかと目からうろこである。


昨日、自宅から大きな研究社の和英大辞典をもってこようかと思っていたが、その必要がないことがわかった。インターネットの辞書ならば場所もとらないし、重くもない。持ってくるのは止めた。ということでその和英大辞典はまだなお自宅の居間の書棚の飾りにとどまっている。

ようやく花粉症に

2016-05-12 11:16:00 | 日記

悩まされなくなった。もちろん花粉症の対策の薬を飲んでいたのだが、それでも夜中に鼻がつまってそれで口で息をするのか喉が乾いて夜中に目が覚めることがこのことろ続いていたが、ようやくそういった症状とのしばしのお別れである。

とはいっても来年の2月初めまでのことである。1月末から4月半ばまで毎年悩まされてきた。花粉症にかかりだしたはじめのころは花粉症だと思ってもいなかったので、熱の出ない鼻かぜが1か月以上も続くと思っていた。ほんとに続けて鼻汁が出るのであるから、かなわない。

それが花粉症と言われているものだとわかって耳鼻咽喉科に診察を受けて薬をもらっていた。そうすると、確かに鼻汁は止まるのだが、一日中眠くて仕事にならない。それで鼻汁が出るのと眠気がほどほどになるようにということで耳鼻咽喉科に行くのは止めた。そして内科で花粉症の対症療法の薬をもらうようになった。

それでも季節中に2,3回ひどく鼻汁が出ることがあったが、今年はそういうことはなかった。1月終わりころから薬を予防的に飲んでいたことがよかったのかもしれない。

眠気もまったくないという訳にはいかなかったが、それほどひどくはなかった。どうせ老齢だからすぐに疲れて居眠りをしてしまう。それが薬のせいかそうでないのか私にはわからない。


6巻5号の編集をはじめる

2016-05-11 18:30:53 | 日記
数学・物理通信の6巻5号の編集を始めた。ところがまだ寄稿をされていないが、投稿をされるのではないかと思われる方が一人おられる。締切を5月25日にしたのでまだ2週間ほど日にちがある。

早く書いてほしいと頼むのも気の毒なので、仕方なく待ってはいるが、はてどうだろうか。原稿がそろったとしてもすぐに編集が終わるわけではない。

というのはそれぞれが何ページを占めるかがわからないと目次ができないからである。それが分かったところで一同にこれでいいですかと最終点検をお願いする。

それでまた手直しが入る場合もある。最後はPDFの文書で編集するのだが、そのときにページ数は投稿されたページ数ではなくなっているので、そのぺージ数を原稿で変えなくてはならない。これはlatexの原稿で変更をするのだが、ファイルをあちこちと移動するのでなかなか面倒なのである。

いい方法がないかと考えてはいるのだが、なかなかいい方法が見つからない。編集段階ではあちらのファイルに飛んだり、こちらのファイルに飛んだりと飛び跳ねる。それが1回で済むことは絶対にない。何回、同じような手続きをするかといえば、多分10回以上は同じようなことをしているだろう。

各人の投稿原稿のファイルでページ数の修正などをした後に作成したpdfの文書をとり出して組む合わせをしている。式の番号の調整はしなくてよくなったが、しかし、また別の調整をする必要が出てきた。

各人の投稿原稿を無視して、その号ごとのファイルをつくることも考えられるが、そうするとその各人の投稿の履歴が失われてしまう。

それで、pdfの原稿の組み合わせは最後の段階だけにしている。それでも試行錯誤の連続であり、まあよっぽど気のいい人で暇人でもなければ、この仕事の後を引き受けてくれる人などいないだろう。

ただ、その号の編集が終わり、発行となればやはり達成感はあるけれども。

清野著「ドイツ語のしくみ」

2016-05-10 12:47:02 | 日記
から、学んだことはドイツのホテルで鍵をフロントで受取るときの言い回しである。鍵はder Schluesselというが、これは男性名詞であるから、den Schluessel fuer Zimmer 324, bitte のように対格でいうとあった。

もっともフロントでは外から帰ってきた人が部屋のカギをもらいたいということはすぐにわかるので、Zimmer 324, bitteでも通じる。

だが、対格(日本では普通には4格という)であることには気がつかなかった。

昨年は

2016-05-09 12:28:51 | 日記

ゴールデンウイークが終わっての始動は5月7日だった。今年は今日5月9日がゴールデンウイーク後の始動となる。5月6日は金曜日でウイークデーだったが、それでも次の日が土曜日だったから、やはりゴールデンウイークの続きがあるような感じだった。

人によっては4月29日から5月8日までの10連休をとった人もおられたかもしれない。私は日曜以外は休まないので、そんな豪華な休日は夢のまた夢であるが。

それにしても暑くもなく寒くもないいい季節となったとは昨年のゴールデンウイーク明けにも書いた。6月にはまた数学・物理通信の3つの号の発行が待っている。

投稿が多くて発行月には3つの号の発行をしないと投稿原稿をさばき切れないのである。6巻4号はすでに編集すみなので、6月が来たらすぐにでも発行できる。6巻5号は通巻50号なので記念号となる。編集はまだ済んではいないが、投稿は大分集まっている。

その上にであるが、6巻5号の原稿もほぼ集まっている。なかなか編集者としては忙しい。うれしい悲鳴である。こちらの方は編集をまだしていないが、そろそろ編集にとりかかってもいいころである。



ニューメロフの方法

2016-05-07 15:38:43 | 日記
という常微分方程式を数値的に解く方法を最近知った。これは固有値問題を解くのに使った人の論文からその解法の存在を知り、クーニンの『計算物理学』(共立出版)でその要点を学んだのだが、論文を投稿をしてくれた方の説明はちょっと唐突に思われたので、書き直してくださいとお願いをした。論文は改訂されたのだが、それでもそれほどわかりやすくなったとは思えない。論文というものは説明をつくす必要はないので間違ってなくて重要な、または必要なことであればそれでいい。

そうではあるが、教育的にはわかりやすい方がいいので、自分で解法の初等的説明のための補遺を書こうと心を決めた。もっともそれでも元の数値微分の定義から書かなくてはならないので、ちょっと面倒ではある。2階の数値微分のときに前進差分をとるのか、後退差分をとるのか、はたまた中心差分をとるのかだとか、ちょっと面倒ではある。

昔、それももう半世紀以上も昔に岩波の応用数学講座の1冊に「数値計算法」だったかの分冊があり、その懇切丁寧な森口繁一さんの数値微分だとか数値積分の説明を読んだ思い出があるが、その原本を私の手元に現在見出すことができるかどうか。できれば説明はそれをフォローすれば簡単のはずである。

もともとニューメロフの方法はそんなに難しくはないので、説明不要かとも思うが、やはりちょっとした説明をしておいた方がよさそうである。

ドイツ語のしくみ

2016-05-07 15:21:41 | 日記

という本を県立図書館で借りて来て読み始めた。アマゾンコムの書評で多くの人がほとんど異口同音に褒めちぎっているからである。

私にはちょっとやさしすぎるようにも思うが、それでも全く不要ということはない。やさしく書けていると思う。まだ最後まで読んではいないが、ほぼ一日か二日もあれば読み終えることができる。

じつは昨晩これを読んでいたが、途中で眠ってしまった。それで本格的に寝ようと思って2階の寝室に行って横になったが、眼が冴えて寝られない。それでまた起き出して、読みかけていたつづきを読んだのだが、そのうちにまた眠くなったのでもう一度2階の寝室で寝たら、9時半ごろまで寝てしまった。

だが、「ドイツ語のしくみ」の終わりまでにはあと40ページは切っているのではなかったろうか。「フランス語のしくみ」だの「イタリア語のしくみ」だのというシリーズもあるようだから、これらも読んでみたい。もっともはじめの方の数十ページは読み飛ばした。

3回くらい読み返せばいいとアマゾンコムの書評に書いてあったような気がする。清野智昭さんという方はNHKのドイツ語講座の講師も務めておられた方だから長年私も彼の講座にお世話になっていた。

「中級ドイツ語のしくみ」という本も出ているらしいし、「中級独作文のしくみ」だかの本はすでに大学生協書籍部に注文した。こちらは独検1級検定に合格した方が苦手な独作文のために購入して、半年ほど読み込んだと書かれてあったので。



最近は忙しい

2016-05-06 12:23:21 | 日記
大体はいままで自分のことで忙しかったのだが、最近は人との係りあいで忙しい。

これは大変なことでもあるが、また狭い自分の領域を広げることにもなっている。

人と係るとその人の知っている領域に自分をもっていかなくてはならない。それがたとえ自分の不得意な領域であっても一応その同じ場所に身をおかなくてはならない。

これは私のようなあまり物わかりのよくない者にとってはある意味ではとてもつらいことでもあるが、一方ではやはり自分の幅を広げるいい機会でもあるだろう。

そういう機会をあたえてくれた天に感謝すべきなのであろう。というような考えをした方がいいのだと思うようになった。