物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ehrenamtlich

2019-07-20 13:22:15 | 日記

Ehrenamt(エーレンアムト)というと私などはすぐに「名誉職」と思ってしまう。これはあるドイツ人夫妻が知人宅にホームステイしたとき、その夫人がehrenamtlichにどこかの役員か会長をしていると言われた。

それを聞いた私はすぐに「名誉職の」という風にとった。それが最近「無給の」とか「ボランティアの」訳されると、なるほどそういう意味もehrenamtlichにあるのだと妙に納得した(注)。

Professor Emeritusも名誉教授という訳もあるが、単に「定年退職した大学教授」という意味も含まれているようである。自分のことをemeritierenした大学教員ということを気恥ずかしく思っていたが、定年退職したことは事実だし、emeritiertという語を使うのもそれほど事実に反したことでもないと知った。

Ich habe seit 2005 emeritiert.

なら、2005年に定年退職した(聖職者または大学教員)であればいえる。

なかなか言葉の広がりがあるものだ。

(注)Ehrenamtとかehrenamtlichとか聞いてすぐわかる人はドイツ語の初心者ではないと思う。やはり中級レベル以上であろう。だが、それでもくだけた用法なのか、それともちょっと気取った用法なのかはそれを使う人にもよるのかもしれない。

すくなくとも私はきどった表現だとそのときに思った。

(2024.3.7付記) 最近NHKラジオの「まいにちドイツ語」の応用編でeRikaとかという放送で老人施設を1か月ごとに巡回するボランティア・リキシャの話が出ていた。このボロンティアはやはりehrenamtlichが使われていた。

リキシャは人が自分の脚でひく人力車を私などは想像したが、そうではなくて座席の後ろにモーターつきの自転車がついていた。

私の活動

2019-07-19 12:10:28 | 日記

このブログ「物理と数学:老人のつぶやき」は私の活動の一つであるが、ほかにどんな活動をしているか。

もう一つの活動は「数学・物理通信」というサーキュラーの発行である。これはいわゆる季刊である。もっと特定していうと3の倍数の月に発行をしている(注1)。

これは完全にボランティアとしての活動である。別にこれで私が利益を得るわけではない。むしろ労力がいるわけだから、むしろその労力は持ち出しである。しかし、それが損だとか得だかとかの、利害得失の観点から考えたことはない。

他にローカルな活動として、毎月、8月を除いて月に1回雑談会というのをローカルな地域での催しをしている(注2)。

だから、結構私は忙しいのである。

それに私の先生だったOさんの「量子力学講義ノート」の編纂も行っている。これは3部に分けて行われているが、終わっているのは第2部までである。第3部はこれから作業されなければならない。もっとも第2部はまだ「素粒子論研究・電子版」に掲載されてはいない。

「数学・物理通信」の業務以外にも、自分でも数学エッセイを書いている。これがなかなか手間がとる。

だから、最近は自称だが、「数学エッセイスト」といっている。こういうときにドイツ語ならangeblich(自称の、いうところによれば)という語をつかう。

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(注1)「数学・物理通信」はインターネットで検索すれば、名古屋大学の谷村省吾さんのサイトにすべてのバックナンバーが掲載されている。これも通算で80号を超えた。総目次をつくろうかと思っている。100号の発行まで私が生きているという保証はないので。

(注2)この雑談会はクローズな私的な集まりであるが、愛媛医療生協のある支部の活動の一環ともされている。


『量と数』

2019-07-18 12:42:28 | 日記
『量と数』(愛媛県数学教育協議会)は80ページにもたらない小冊子ではあるが、これは故矢野寛(ゆたか)さんの渾身の書とでもいうべきものである。
 
この書と『中学・高校における水道方式』(愛媛県数学教育協議会)は、ともに私どもが手元において、常に参照すべき書であろう。
 
矢野先生には別に『量と数』の前身の書とでもいうべき、『矢野寛研究論文集』(四国地区数学教育協議会)もある。これには『量と数』で取り扱わなかった、テーマも扱っている。それでページ数も160ページを超えている。
 
この書の前半の部分が『量と数』に収められている。もっとも『矢野寛研究論文集』は手書きの原稿であったが、『中学・高校における水道方式』も『量と数』もワープロ原稿になって格段に読みやすくなっている。

話すドイツ語

2019-07-17 11:55:01 | 日記

話すドイツ語を大学で学ぼうと思ったら、南山大学か上智大学の外国語学部で学ぶのがよいとはもう何年も前に、ある知人から聞いた。

これは話すドイツ語という観点からなので、文学としてのドイツ語とか、語学としてのドイツ語という意味ではない。最近ではNHKのドイツ語講座の先生も南山大学所属の先生とか、上智大学所属の先生がなさっておられるので、この定評にしたがったものであろう。それから独協大学の所属の講師も多い。

これらの大学はだから、たぶん話すドイツ語を大切にしているにちがいない。これは単にドイツ語だけなのか、それとも他の言語でもそうなのかは知らない。

ドイツ語で言語のことをdie Spracheという。話すという語はsprechenである。この辺がフランス語ならla langueであろうから、ちょっとちがう。langue de chatというお菓子があるが、あれはlangue、すなわち、「猫の舌」を意味する。

英語でも母語のことをmother tongue(直訳すると母の舌)というから、それはフランス語のlangueと発想は同じである。私はあまり外国語に詳しくはないが、それでも言語というのは第一義的に、話す言葉だというのは若いころから教えられた感じを強くもっている。

ちなみに「母国語」という語の代わり「母語」を使うのは言語学者の田中克彦さんの用法にしたがっている。言葉は国とは関係がないからである。

たとえば、日本生まれの、在日の人には日本語は母語ではあっても母国語ではなかろう。


三角形の面積

2019-07-17 11:16:48 | 日記

直角三角形でなければ、三角形の高さを知ることは難しい。ところが三角形の面積は(底辺*高さ)/2で与えられるから、どうしても三角形の面積を求めるには、三角形の高さが必要である。

ところが三角形の三辺の長さが与えられていても、それからすぐにその三角形の高さを求めることはできないから、その三角形の面積を求めることが難しい。

そのときに三角形のどこかの角度がわかっていると、そのsin thetaは三角形の高さを与えるというふうに書いてあった。そういう風にsin thetaを導入する方法もあるかと教えられた。

小学校の算数が専門の先生の教えてくれる、高校数学の一幕である。


数学塾の入塾のお断り

2019-07-16 10:23:24 | 日記

私の知人で数学塾をしている人がおられ、数学がよくわかるようになった、子どもはもう来なくてもいいと断ったという人がおられる。

自分にもう教えられることはないし、生徒が自分でできるようになったからという理由である。しかし、その場はなかなか塾として勉強の雰囲気があるので、来させてくれと親御さんに頼みこまれたという。

そういう塾を数学者の遠山啓が生前したことがある。夏休みだったかに塾の生徒を募集したが、入塾のときに面接があって、数学がわかっている生徒には入塾をお断りしたというからふるっている。

なんでも、試験はいい成績でないと学校には入れてくれないのが普通である。これは東京大学を目指す生徒を受け入れている、駿台予備校のようなところもそうである。

たとえばの話だが、テニススクールを開いて、「普通にストロークを打てたり、ボレーができたりする、生徒はスクールの入学をお断りします」なんてテニススクールなど聞いたことがない。

先生が自分で教えられないことは、もう生徒が自分で一人で学ぶことができるのだから、塾に来る必要はないというのはいかにも良心的な先生である。

なんでも生徒が来て、その月謝が入れば、もっとハッピーだという風には考えていないところがおもしろかった。この方は小学校の教員を長年されていた方であるが、小学校で塾に来た生徒が中学生になり、高校生になったときにやはり頼まれてそれらの生徒を続いて面倒をみるという体験をされた。

そして、それを愛媛県数学教育協議会の機関誌「研究と実践」にその様子を連載された。小学校の先生があまり自分に得意ではない高校数学まで自分なりの理解をしていくという体験を読ませてもらえるのは興味深い。


ジョコビッチとフェデラー

2019-07-15 12:48:28 | 日記

ウインブルドンの決勝戦が昨夜あった。

結果は3-2でジョコビッチの勝利であったが、ファイナルの第5セットまでもつれた、ゲームであり、ジョコビッチの3セットの勝利はいずれもタイブレークであった。

ファイナルのゲームは12-12でタイブレークにもつれ込んだ。ファイナルではフェデラーが40-15でチャンピオンシップをにぎったが、それをものにできずのタイブレークであった。

勝負のあやは微妙である。


内包量の加法

2019-07-15 12:17:38 | 日記

外延量は加法ができるが、加法ができないのが内包量だといわれる。これの意味は物の合併によって加法が生じるのは外延量であり、ものの合併によっても加法が生じないのが内包量ということであり、内包量は絶対に加法ができないのではない(注)。

それで、数学教育協議会でもこの内包量の加法の研究とか実践が必要だと思っている。だが、それについては故矢野寛(ゆたか)さんが論じたものしか知らない。

銀林浩さんとか遠山啓さんとかいった数学教育協議会の理論的な土台を背負った人たちが、どこかで詳しく論じているのかも知らないが、私自身はそれを見かけたことがない。

だが、矢野 寛さんの『量と数』(愛媛数学教育協議会)には3ページか4ページにわたってその説明がある。ところがそれを読んでもなかなかわからなかった。だが、その部分の理解が重要なことはわかっている。それで昨日から再度その部分を読み返している。

前よりもわかるようになったが、まだ十分の理解ではない。何回か読み返して、かつそれらの量が出てくる物理等ももう一度勉強しなおし、十分な理解に至りたいと考えはじめている。

(注)これについては、このブログでも数回は書いた。だが、その筋の人でなければ、すぐには理解できないかもしれない。

ガリレイ・ガリレイの『新科学対話』(岩波文庫)をあまり読んだことがないのだが、重い物体とそれほど重くはない物体をひもでつないで落下させる、このとき二つの物体の総合した重さは単独のときよりも重くなっている。このとき重さに比例して落下速度が決まるのなら、それを結合した物体は単独よりも速い速度で落下するはずである。

しかし、そうはならない。こういう例があるとか聞く。または現代的な話なら、時速80kmは出せる車と時速120km出せる車をワイヤーでつないで、走らせるとその速さは(120+80)=200kmの速さとなるかとなるとそういうことはない。それが速度が足せない理由である。

内包量の加法は、しかし、速度でも相対速度は加法ができる。


町田茂さんといえば、

2019-07-14 15:56:03 | 物理学

町田茂さんといえば、星崎憲夫さんを思い出さねばならない。彼は京都大学を定年後に『基幹物理学』という名の大部な物理の自習書を書いていた。

私たちの先生である小川修三さんの葬儀があった後で友人たちと帰る途中で白髪のあまり背の高くない人と一緒になった。それで「あなたはどなたですか」とぶしつけに聞いたら、先輩が

「お前は星崎さんを知らないのか失礼な」といわれた。

友人の樋口さんの上司が星崎さんであったので、一度ならず会っていたはずだが、物理とはあまり関係がなくなった私は覚えていなかった。

その後、なんどか星崎さんと文通をしたことがあったが、そんなにに早く亡くなるとは思っていなかったのだが、その後、割と早く星崎さんは亡くなってしまった。

何だったかよくは覚えていないが、武谷さんに関することが手紙のやりとりのテーマであった。また別の先輩からは『基幹物理学』は1万円くらいで高価だったが、「香典代わりに自分は買ったから、君も買いなさい」と勧められたが、買わないでいるうちに何か出版社と遺族との間にトラブルか何かが起きた。そのうちにそれは解決して、また市販されるようになったと思うが、結局買わなかった。

その本にかなりの加筆したのは町田さんだったと聞いている。最近では、その著者に旧知の佐々木隆さんまでもが加わっている。


男子プロのテニスの3強

2019-07-14 15:03:46 | 日記

男子プロのテニスの3強といえば、言わずと知れたジョコビッチ、フェデラー、ナダルとなろう。

この3人は才能も大したものだろうが、やはり人知れずにひごろ精進をしているのだと思う。だから何十位のランキングに落ちてもまたその努力でトップテン以内に帰り咲けるのであろう。

それが一昨日のナダルとフェデラ―のテニスのゲームを見て思ったことであった。単に才能だけではない、日ごろの精進というか努力を私たちは知らねばならない。

そして、そのことを彼らは自慢したりはしないで、当然のこととしている。そこが彼らの偉大な所以であろう。ゲームだから勝つことも負けることもあろう。

けがや不調に悩むことあろう。それでも自分のチームを信じて、精進また努力し、ゲームでは最善をつくす。それが彼らの生きざまであろう。

フェデラーに関していえば、錦織が今年は順調にゲームを消化してフェデラーにあたったのだが、それでも1ゲームしかとれなかった。これはまだ、錦織には伸びる余地があるということである。

今後の躍進を錦織に期待している。

さて、今晩のゲームはジョコビッチとフェデラーの決勝戦である。さて、どちらの勝利の女神は微笑むのであろうか。

 


今日は一日中、雨

2019-07-13 16:59:56 | 日記

今日は一日中、雨でした。涼しくてよかったけれど、洗濯物は乾かないです。

なんでもすべてのことが、いいことはないのでしかたがないです。ラジオの外国語の講座もないので、のんびりしています。

雑誌「科学」(岩波書店)に武谷三男が書いた論文とか記事のリストをつくっています。それがすんだら、「素粒子論研究」に書いた論文とか記事のリストをつくるつもりです。

これは8月高松市で発表する。徳島科学史研究会の講演の準備となるものです。

 


ナダルとフェデラーの試合

2019-07-13 13:41:16 | 日記

昨夜、ウインブルドンの準決勝の試合の中継があった。

テレビのチャンネルを回したら、ちょうどジョコビッチとだれかとのゲームが終わっていなかった。しかしそれもほどなくジョコビッチの勝利におわり、続いてナダルとフェデラーの試合が行われた。

途中居眠りをしたりしたが、たぶんこの試合は歴史に残る名勝負の一つになるのではなかろうか。直に見たわけではなく、居眠り中だったと思われるが、45回か46回のラリーの応酬があったという。

結局、3-1でのフェデラーの勝利に終わったが、なかなかナダルも負けてはいなかった。両者の健闘を讃えたい。これでまた、日曜夜の、ジョコビッチとフェデラーの対戦が楽しみである。

もっとも私は寝不足である。


入力障害

2019-07-12 10:23:29 | 日記

ローマ字入力で自動変換されるのが最近の流行であるが、どうも変換の候補が日本語の入力のつもりでやっているのに、横文字に変換の候補がなっている。それしかないのである。だから、能率をあげるために考えられたはずなのに逆効果になっている。なかなか難しいものだ。

英文タイプを若いころに学んでいたので、アルファベットの文字の位置を今覚えているわけでないが、およそのことはわかる。それで結構早く入力できていたのだが、どうも英語に変換したくないのに、英語にまたはドイツ語に変換してしまう。

これでは逆効果で入力障害を引き起こす。このことを書いているいまはどうしたことかスムースに入力ができているから不思議である。


ドイツ語の面倒なことに

2019-07-11 18:23:16 | 日記

ドイツ語の面倒なことに、ドイツ語のクラスで最近しばしば出会うようになった。

この一つは形容詞の語尾変化である。

形容詞の前に定冠詞がつくか、不定冠詞がつくか、それとも冠詞類はなにもつかないかよって、形容詞の語尾が変わってくる(注)。一番簡単なときは定冠詞がついたときであるが、このときは形容詞の語尾はeかenである。

1格と4格でeがつくが、それ以外はenである。ちょっと簡単化しすぎであるが、基本的にはそうである。例外があって、男性名詞の定冠詞の4格denのときに語尾がenでeではない。たとえば、den alten Mannとなる。den alte Mannではない。

不定冠詞がつくときには、3か所で定冠詞の語尾を示す形容詞の語尾がつく。これは男性名詞と中性名詞の1格でein alter Mannといったようにalt語尾erがつくのと中性名詞の場合にはein leines Kindのようにesがつく。これは4格の場合にも中性名詞ならein kleines Kindとやはりesがつく。男性名詞の4格の前には不定冠詞einenがつくので、もう形容詞の語尾はいりそうにないが、それでもeinen alten Mannとenがくりかえされる。

女性名詞には1格、4格ともにeine sch"one Dameのようにeがつく。男性名詞の4格はeinen alten Mannというふうにenがつく。語尾が繰り返されるところに特徴がある。

冠詞類が何も名詞につかないときにはその冠詞類を表す語尾が必要になる。これはほぼ定冠詞の語尾を形容詞が受け継ぐ。ただ、定冠詞とちがうところは男性名詞と中性名詞の2格の前の形容詞の語尾がesではなくてenになるところと、中性名詞の前の形容詞の1格と4格がasではなくてesとなるところである。

他はまったく定冠詞の語尾を受け継いでいる。

今年になってドイツ語のクラスで講師のR氏から解説があったが、あまりよくわからなかった。もっとも彼はドイツ語の出版社の一つである、D社とこのことでもめたと話をしていた。

彼の説明はここでしたのと同じ説明であったろうが、それだと文法書の数十頁の説明はいらなくなり、出版社としては困るというクレームであったらしい。

本当のところは知らないが、簡単に説明できることを難しくすることはない。それにしても中島、平尾、朝倉3氏の著書である、『必携ドイツ語文法総まとめ』(白水社)でも説明は2ページで終わっている。しかし、ここには定冠詞の語尾変化の一部または全部を形容詞が受け継ぐといったたぐいの説明がないように思われる。

いや、どこかに書かれているのかもしれないが、私がせっかちだから読み飛ばしているだけかもしれない。

きちんとしたドイツ語の先生は、しかしこのことを知っているらしいことは、ドイツ文学者である、M氏からもちらっと形容詞の語尾変化はある種の規則性があるのです、と聞いた。

(注)形容詞の前に定冠詞がつく場合は「弱変化」、不定冠詞がつく場合を「混合変化」、冠詞類はなにもつかない場合を「強変化」とドイツ語の文法書では言っている。 

 


いつものことだが

2019-07-11 13:04:03 | 日記

いつものことだが、「数学・物理通信」を発行した後は虚脱状態になる。たぶん一週間も虚脱状態は続かないとは思うが、数日は虚脱状態になる。

楽しみで発行しているのだが、かなりのストレスにもなっている。原稿をpdfでそのまま発行しているので、何がストレスだといわれるかもしれないが、ページ数とかタイトルとか目次をつくったり、編集後記を書いたり、その編集もたいてい10回まではしないかもしれないが、平均して5,6回はしていると思う。

それに1度か2度は投稿者に点検をお願いしている。その場合でも、変更が入れば、元のlatexにもどって変更を加えなければならない。

そのことが嫌なら、編集者はやれない。それはそうだが、なかなかの仕事である。いや、一つ一つは大したことはないのだが、それらが集まって結構面倒な仕事となる。

それでも意義があると思うから続けている。いわば、生き甲斐である。