武谷技術論の意味はそれ以前に存在していた、技術とは「労働手段の体系である」とした定義に対して、まったく別のテーゼであった。武谷技術論が正しいか、「労働手段の体系説」正しいかという議論も意味はある。
しかし、問題はもっとちがうところにあり、別の技術の定義が出てきたことで、議論が深まったところにその重要な意義があると思う。
そういう議論は私自身はみたことがない。何でも単に一つの説で閉じているときにはあまり発展は期待できない。異なった説がでてくると自分自身もちがったものの見方ができるようになるときに発展がある。
そういう点では科学の歴史において、武谷三段階論が正しいかどうかもさることながら、そういう新しい考えの提唱によって、議論が深まる。そういった点で新しい説は役立つと思う。
第一、広重徹さん自身が「武谷三段階論はなり立っていないという説」で自分自身の存在意義を示した。それは一つの効用であるが、あまり影響を与えるものではないと思っている。
(2019.7.5付記) 武谷の技術の定義を書いていなかった。「人間実践(生産的実践)における客観的法則の意識的適用」が技術である(『弁証法の諸問題』(勁草書房))。
新しい見解を発表して議論を巻き起こすのは、それテーゼ自身の正否も重要であるが、それ以上に影響が大きくて貢献度が大きいのではないかという観点である。あまりこういう観点からの議論はなかったと思う。