【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

ありがとう2010年 土砂降りでびしょ濡れの“無冠の警視”に感謝

2010年12月31日 15時35分37秒 | 岡田克也、旅の途中

 NHKホールでは、そろそろ第61回紅白歌合戦の最終リハーサルが始まった頃でしょうか。善光寺や浅草寺では除夜の鐘、信州や讃岐では、そば屋が大忙し。クリスマス休暇で日本を旅行している欧米の人は音を立てずにパクパクとそばをちぎって食べているでしょう。我が家も年越し、何もなければ、これがことし最後のエントリーになるかと思います。

 じつはきょう、気付いたんですが、学生・記者・支持者として、支持政党が1月1日~12月31日、与党だったというのは2010年が私にとって初めての経験だったんですね。(1992年4月から自民党学生部、1993年6~7月に新生党学生部で総選挙中は野党、1994年6月羽田内閣退陣で下野→2009年8月まで野党。記者としても1997年4月入社で官邸・総理番も1998年3月から野党・民主党担当に)。

 第22回参院選。2010年7月9日夕方の埼玉県川口市。岡田克也外相が、中東調査会でおなじみの候補者、大野元裕さんの応援に駆けつけました。あいにくの天候で、その2日後の第22回参院選民主党惨敗を予見したかのようでした。

 私は遊説会場にかなり早く行きました。会場の警備は埼玉県警察本部の警察官。一見して着慣れていないとわかるスーツ姿でした。報道スペースが仕切られていて、その担当の若い丸顔の警官。私は、一人ぽつんと、会場の設営や聴衆の集まり具合をぼーっと眺めていました。若い丸顔の警官は、まだ時間がだいぶあるのに、聴衆に向かって「ここは報道スペースですので、入らないでください」と声をかけていました。私は、この夕刻の時間帯の演説会には、テレビカメラは来ないだろうし、ペン記者が来るとしても、こんなに広いスペースは要らないだろうと思ったのですが、まあ、おとなしくしていました。若い丸顔の警官は、私に「報道の方ですか?」と声をかけてきましたので、名刺を出してあいさつしました。

 やがて、演説会場は大雨となり、候補者と応援弁士が登場したときには土砂降りとなりました。




 岡田外相がマイクを持ったときには、ますます雨は激しくなりましたが、岡田外相と大野候補は一切傘を持たず、ずぶぬれになりながら、訴えました。「もう一度チャンスをください」と叫ぶ岡田外相には、鬼気迫るものがありました。岡田さんや大野さんは、国会のなかでも頭がいいタイプの人でしょう。しかし、これは統一地方選を戦う人にもぜひ分かっていただきたいのですが、メッセージは頭ではなく、態度で伝えるものです。

 メッセージとは、相手に伝わって、初めて意味があります。

 これが功を奏したのか、大野さんは改選3議席の埼玉で、最下位とはいえ、激戦を勝ち抜き、参院議員になりました。

 岡田外相と大野候補は、ずぶ濡れのまま、1階のバス乗り場から階段を昇り、2階コンコース、駅出入り口近くまで行き、また階段をくだって、1階のデパート前の遊歩道で、聴衆、有権者とくまなく握手して回りました。そして、岡田外相はワンボックスカーに乗り込み、去っていきました。外相の周辺にいる警護官は警視庁ですが、大臣車の交通整理をしたり、大臣車と併走したりする警官は通例、地元の県警です。 日ごろ要人警護の経験が少ない警官たちは、傘ぐらい差しばいいのに、自前の着慣れないスーツをびしょびしょに濡らしながら、大臣車と併走して警護しました。事前のミーティング通りの動きなのでしょう。あの背広はクリーニングに出しても、もう元通りでは着られないでしょう。

 埼玉県警は親孝行者が多いこととされます。東北・上越新幹線などJR東日本の新幹線が大宮を拠点にしており、岩手県、福島県、新潟県、長野県、群馬県などから、人口急増県である600万・埼玉の警察学校に入る人が多いからです。都市部で稼ぎ、盆・暮れには、新幹線で実家に帰る。ですから、今、このエントリーを書いても、実家でこたつを囲んでいて、メッセージは届かないかもしれません。

 岡田さんがこの後、埼玉県警に電話を入れて、土砂降り警護の労をねぎらったということは間違いなく、ないでしょう。そんなことが出来るのなら、とっくに総理になっています。

 

 その代わりというのも変ですが、埼玉県警のみなさんに私が感謝のメッセージを送りたいと思います。警察官は、岡田さんや大野さんと違って、「無事これ名馬」で仕事をしている限り、スポットライトを浴びることはありません。でも、こうして日本人が年を越せるのは、名も知らぬ警官のみなさんのおかげで、いわば“無冠の警視”だと思います。

 2010年、年男の私は3月収録・4月放送でジャニーズとフジテレビで共演、5月に母が同級会の社会科見学で大臣のイスに座り、7月に父が国立劇場(小劇場)の舞台を踏み、9月に兄が入社22年目にしてついに丸の内に転勤、10月に父が法人会から表彰され、12月に私の写真が日経とウォール・ストリート・ジャーナルに載るという慶事が続きました。派手と流行を戒め、地味に堅実に生き、そして志をまっすぐに持ち続け、ハッキリと意思表示をする生き方をしてきたからだと思いますが、周りの多くの方々に感謝します。

 ことしも年を越すことができます。

 この1年間、当ブログに付き合ってくださり、ありがとうございました。

【追記 2011-1-17】

 現住所・埼玉県警、本籍地・東北新幹線の方のイメージ映像



 YouTubeで見つけたので張っちゃいました。【追記おわり】


あわや国会崩壊、マニフェスト崩壊を救った参院自民党の2議員 礒崎陽輔さん、宮沢洋一さん

2010年12月31日 08時07分03秒 | 第176臨時国会(2010年10月)熟議

[写真]参議院自民党の礒崎陽輔さんと宮沢洋一さん(各々、自民党ホームーページと宮沢洋一さんのブログから)

【参・予算委 2010年11月22日(月)の午前中の一般質疑と午後の集中審議】

 第176臨時国会(2010年10月1日~12月3日)について、書きそびれた一本を大晦日にアップします。

 ねじれ国会という事で、参・予算委員会は補正予算提出前から基本的質疑や集中審議が多く、NHK国会中継が何度入り、かなり国会に興味を持つ人が増えたようです。ただ、「予算委員会なのに予算の審議をしていない」「ヤジが酷すぎる」という世論があり、「ヤジ」に関しては全く同意しますが、審議の内容に関しては、比較的良かったと思います。つまり、今までの国会と比較して良かったという意味です。こんな中、補正予算案提出後の一般質疑(総理は出席せず、テレビ中継はない)の中で、あわや「国会崩壊」「マニフェスト崩壊」となりかねない事態を、参院自民党の議員が救ってくれた場面がありました。

 一人は、礒崎陽輔・予算委理事です。自治省出身で、第21回参院選の大分選挙区で、全国的に珍しく民主党と社民党が選挙協力に失敗し、別々に候補者を立てしまい、漁夫の利を得て初当選したのが、礒崎さんです。

 公明党の石川博崇さんが法務行政について質問したかったようですが、この朝、柳田稔法相が辞任。そこで、「法務大臣(としての答弁)は、仙谷さんということでよろしいのか」と、法相を兼務することになった仙谷由人・官房長官に確認しました。この国会で問責決議をされることになる仙谷さんですが、「朝8時に菅総理が柳田大臣から辞表を受け取った」とし、「総理から『お前(仙谷さん)が法相をやってくれ』と言われた。持ち回り閣議で、(国務大臣として天皇陛下から認証された後、○○大臣としての所掌事務を決める)補職辞令の手続きがされる」と述べました。ところが、繰り返しの確認に対して、「その手続き(補職辞令)が出来ているか分からない」。石川さんが「今、この場では、仙谷官房長官が法相なのか?」と畳みかけると、補正予算成立を急ぐ仙谷さんは、「私の生の経験では、総理からは伝えられいるので」法相として答弁できるという珍説を披露。すると、礒崎理事は、「そりゃダメダメ、ダメダメ、ちゃんと確定しなきゃダメですよ」と委員席の前田武志さんに答弁を止めさせるよう、歩み寄りました。礒崎さんは「誰が大臣かなんて、国会においてイチバン大事なことじゃないですか!」。

 この後、内閣官房の職員から、仙谷さんにメモが入ったようで、「今メモが入ったところでは、補職辞令(の決定)が持ち回り閣議で終了したということです」と語り、石川さんの再度の確認の後、仙谷法相としての答弁が始まりました。

 とはいえ、もし、補職辞令前に、法相でない人が法相として答弁していたら、議事録削除どころですまない大混乱でした。攻勢を強めていた参院自民党の礒崎さんがわざと見て見ぬふりをして仙谷さんに答弁させておいて、後から問題視していたら、参院自民党の戦術としては、よかったかもしれません。が、それは礒崎さんが言うとおり、「国会においてイチバン大事なこと」ができていない“国会崩壊”です。与党も野党も関係ありません。礒崎さんは自治省・消防庁勤務もあったようですが、“災害”がおこるまえに、しっかり火の用心してくれました。

 この後、午後の審議では、宮沢洋一さんが質問に立ちました。宮澤喜一元首相の甥(参院議員・自治事務次官・広島県知事を務めた宮澤弘さんの息子)で、宮澤首相の政務秘書官を経験し、大蔵省を辞めて国会議員になった人です。

 政府の行政刷新会議の事業仕分け第3弾前半「特別会計仕分け」を取り上げ、「貿易再保険はとても大事ですが、貿易再保険特別会計から独立行政法人に移せ、という仕分け結果が出ました」と大畠章宏・経済産業相に質問。このときの宮沢さんの口ぶりは、貿易再保険は大事なのに、大丈夫なの?という風情。

 大畠さんは「ネクシー」という聞き慣れない言葉を使いながら、「独立行政法人・日本貿易保険、ネクシーを中心に貿易再保険は続けていきます」として、どうやら「ネクシー」というのはこの独立行政法人の略称のようですが、貿易再保険は「維持することができました」と堂々と答弁。

 ここで宮沢さん、ニヤリ。

 「あれ、大臣、もっと怒るのかと思っていましたよ。ホントウにそれでいいんですか?昨年の(09)マニフェストには、『独立行政法人の実施する事業について、国が責任を負うべき事業は国が直接実施することとして、全廃を含めて抜本的な見直しをする』と書いてありますよ。独法なんて、基本的になくせ!って書いてあるじゃないですか」として、貿易再保険はすべて国が責任を負い、「ネクシー」は廃止すべきではないかと論を進めました。

 宮沢ファミリーのクレバーで嫌みなところは、私は大好きです。

 大畠さんは虚を突かれたようで、民主党政調会長・国家戦略大臣の玄葉光一郎さんがフォローの答弁に立ちました。宮沢さんは「ともかく独法をなくせというマニフェストであなたは当選したんだから、それに逆行するという結果が出たら、徹底的に大臣は抵抗しなければいけない。私は仕分けの第1弾、第2弾は決算を対象として、それなりに成果があったと思う。しかし、この秋に行われている第3弾は、自分たちのつくった予算を仕分けをするという妙なことが行われいてる。情けない話であります。それだけ指摘をして、質問を終わります」。

 事業仕分け第3弾が民主党が組んだ予算ベースで議論されたことについては、農水副大臣の篠原孝さん、総務政務官の逢坂誠二さんからも異論が出ました。玄葉政調会長は、第22回参院選を使って、マニフェストの修正を試みましたが、選挙結果が惨敗だったので、それもかないませんでした。岡田克也幹事長は、次の予算編成を機会にマニフェストの進行状況について、国民に説明し、修正するスケジュール感を持っています。

 大畠さんがなぜ、「ネクシーは残りました」と自負したのか、その答弁の深層は分かりませんが、事業仕分け第1弾第2弾は評価しながら、マニフェスト逆行に気付かなかった大臣をたしなめ、事業仕分け第3弾は批判する。解散がない参議院議員の良心。

 参院自民党にもっと良識を求めたいと考えるし、来年の国会中継では、ヤジも気になりますが、「衆議院だから総理は解散をちらつかせているな」「参議院だから大臣は問責決議をおそれて答弁しているな」という違う視点でテレビを見るという有権者の成熟ぶりがあればいいなあ、と期待しています。
 

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