立憲民主党は午後6時から党の正式な臨時記者会見を開き、福山哲郎幹事長がきのう亡くなった羽田雄一郎さんの死因は、新型コロナウイルス感染症だと発表しました。既往症として、糖尿病、高脂血症、高血圧があったとしました。党の公式主催でお別れの会を執り行いたい意向ですな日程は未定だと言明しました。
羽田雄一郎さんは立憲民主党会派の参議院議員会長選挙に立候補の意向がありながらとりやめ初代参議院幹事長となりました。党内融和の象徴。同時に、衆議院長野3区転出や、政権交代後の2度目の入閣、あるいは、参議院議長も視野に意欲的に活動していました。おととしの国民民主党結党では初代代表をめざしましたが、週刊誌で、医療コンサルタントで元民主党衆議院議員の配偶者である男性から接待を受けたとの記事が出たこともあり、別の雄一郎さん(玉木雄一郎さん)を立て、役員室長におさまっていました。
また、靖国神社参拝を欠かしていませんでしたが、2018年8月15日は翌夏の選挙でともにたたかう市民連合のみなさんの考え方を勘案して、参拝しませんでした。応援してくれる仲間の考え方を理解して、行動を変えるのは、現職政治家として当然のふるまいです。
祖父は朝日新聞記者出身のインテリ代議士ながら入閣できなかった羽田武嗣郎さん。あとを継いだ羽田孜さんは、同期の小沢一郎さんとの「つとむちゃん・いっちゃん」コンビは田中角栄さんの愛弟子として、佐藤栄作さんの薫陶を受けた先輩をしのぐ勢いで、自民党竹下派内で出世していきました。とくに、孜さんは農林水産大臣2回、大蔵大臣という先代の果たせなかった夢をはるかに凌駕する経歴をえて、そして内閣総理大臣となりました。
下野後も民主党初代幹事長として政権交代ある政治をもう一度めざした孜さんですが、すぐに党内情勢は混迷。そこに、参議院補欠選挙長野選挙区に民主党公認として初出馬し、圧勝。連続当選を続けたのが、雄一郎さんでした。
雄一郎さんは、千代田区立富士見小学校で学びました。宿舎のご近所で幼馴染である、加藤紘一さんファミリーが東大・慶大のインテリであることから、多様なりとも劣等感があったようです。やがて、成城学園中学に進学。竹下派で初出馬初当選から連続当選をするお父さんのことは知られていて、「なんで政治家の家なのに貧乏なんだ」といういじめに遭いました。その頃、小沢一郎さんは文京区湯島で相続した一軒家を売却してかなりのお金を得ていたようです。雄一郎さんはお母さんの愛情で、新潟県内の高校を経て、玉川大学を卒業し、保育師免許を取得。伊藤忠商事の系列の財団法人に就職し、衆議院議員秘書を経て、参議院議員に。
この間、偉大な父は総理大臣となっていきましたが、雄一郎さんの父や母への尊敬、愛情は絶大。しかし、もともと明治維新の負け組である長野県では、「東大か、信大か、高卒か」という考え方で、士官学校なども好かれません。
孜さんも父の東北大学などを念頭に置きながら、私立の成城学園へ。その後、父と同じ朝日新聞や、党人派の官房長官・自民党幹事長を連続して輩出していた日本経済新聞の入社試験を受けましたが、不合格に。雄一郎さんの議員宿舎の幼馴染の加藤ファミリーらが慶大などに進むなか、自身は思うような学業の成績を上げられなかったことには、コンプレックス、劣等感を持っており、それをはねのけた人生だったといえます。
このため、参議院国対畑をつとめ、たびたび、国対委員長、会派幹事長をつとめました。長野県選出のため、オーソドックスに、農林と国土交通を中心に国政キャリアを積んだため、通常国会の最中に国対委員長から国土交通大臣にシフトするという異例の人事でも、そつなく答弁し、内閣で最多本数の法案を成立させ、省内でも人望は厚かったようです。
上述の通り、医療コンサルタントについては、その妻が元民主党衆議院議員という付き合いですが、かばいきり、党代表は自らつきませんでした。長野県は人口200万人なのに、有名芸能人が峰竜太・清水アキラしかいないことはひそかに有名ですが、選挙区内の軽井沢に別荘をかまえた東京の有名芸能人から自宅に招待されると、喜んで行きましたが、それは実際には年1回以下のことだと思います。
お酒はほとんど飲まず、自宅である参議院麹町議員宿舎からハイエースを一人で運転して、衆議院赤坂議員宿舎へ。新人代議士10名を乗せて、党内基盤を固めていました。「国会議員になって、羽田総理大臣の息子の参議院議員に、東京、六本木の飲み屋を紹介してもらった」と大喜びだったそうです。小沢さんとは違う、羽田ファミリーらしい生き方をされていました。
奥さんが航空会社のキャビンアテンダントだったので、同僚の夫が枝野幸男さんという関係。また、きょうの記者会見で、福山さんも、1996年の衆院選で惜敗して参院選に出馬するまでの間、羽田幹事長の雄一郎公設秘書に世話になっていたことを、明かしました。
偏差値なんか高くなくても、「権力は腐敗するから、政権交代ある政治をつくるんだ」というたった一つのセオリーを、二代で通し続けた特筆すべき父子でした。
ご自宅だった、参議院麹町議員宿舎あてに、ご弔電をお送りしましたら、午前9時40分台に届いた、とNTTから連絡がありました。ご家族も濃厚接触者です。また宿舎にはいつまでいられるのでしょうか、ご配慮をいただきたいものです。
また、ここ数年の羽田ファミリーは「トシ先生」の愛称で、北澤俊美元参議院議員を頼っていました。もちろん篠原孝代議士や下條みつ代議士に一目置いていたことはいうまでもありません。またきのう付き添った政策秘書は、羽田孜代議士の晩年1年ほど、通例である「元総理経験者にはSPがつく」のを断って、羽田代議士の体を触りながら本会議場まで送り届けていました。偉大な羽田父子の議員生活最後の日まで、体に触れながら寄り添い続けた稀有な議員秘書ということになります。
東京の方の羽田家では、雄一郎さんの叔父にあたる、世田谷区で町内会長を務めた羽田さんも亡くなりました。やす子さんは次郎さんファミリーと暮らしており、今後もお元気でいていただきたいものです。
私自身、長野ルーツ、東京生まれ、男2人兄弟ということもあり仲良くさせてもらいました。私の早稲田大学政経学部在学中のサークル「鵬志会」で、女子学生が神楽坂の料亭でアルバイトをしていて、民主党の労組や財務省出身の議員も来ている。そう聞いて、「私は祖父・曾祖父・高祖父は村会議員だが、父は東京に出てきて社長とはいえ民間人。神楽坂の料亭というものには縁がない。でも行きたいから、次郎さんつきあってください」、と次郎さんに頼むと、次郎さんもあまり経験はなかったそうですが、つきあってくれました。そこで、女将さんの兄である社長は、千代田区立富士見小学校で、雄一郎さんと同級生だと判明。雄一郎さんに聞くと、「名前だけではちょっと分からない、クラスは違うと思う」とのことでした。なさそうでありそうな、東京の世界の話ですが、こういう世界と行きつ戻りつしながらも、雄一郎さんや、不肖・宮崎などは戻るべきところは戻っていけているな、と感じます。
とても残念ですが、さまざまな世界の往復には心労もあったかもしれません。
以前にも書いた話ですが、国民民主党が結党される直前の夏。参議院議員会館で、政策秘書と話しながら、雄一郎議員が議員室から出てくるのを待っていた午後1時半。雄一郎議員が出てくると「お!」と手を挙げてくれ「昼飯買いにコンビニに行ってくる」。政策秘書に「お忙しそうだから、コンビニから戻ってこられたら挨拶して帰ります」と言ったら、雄一郎さんが、アイスキャンデー2本を「はい」と政策秘書と私に1本ずつ。私は「じゃ、アイスキャンデー食ってから帰ります」とその後、数分間。そこにいました。
ちなみに、なぜ連続当選しても貧乏かということですが、バブル期に、地元の私設秘書どうしがお互いが身に着けている下着のブランドを競い合ったり、孜代議士が一年に一度も訪れない羽田事務所が東京にあったりした時期もあったようです。
同じことを同じように言い続ける。そこに居続ける。これはとても簡単なことに思います。しかし、どうやら、世間では逆に難しいことのようです。雄一郎さんのように父を尊敬し、愛するところ。政治の基本は家族だ。そういう基本を通した先に、東大や代ゼミでは教えてくれない、人の道、連続当選しつづける真の知恵があったのだとそう思います。ですから、その使命は既に果たされたのです。
以上です。
羽田雄一郎さんは立憲民主党会派の参議院議員会長選挙に立候補の意向がありながらとりやめ初代参議院幹事長となりました。党内融和の象徴。同時に、衆議院長野3区転出や、政権交代後の2度目の入閣、あるいは、参議院議長も視野に意欲的に活動していました。おととしの国民民主党結党では初代代表をめざしましたが、週刊誌で、医療コンサルタントで元民主党衆議院議員の配偶者である男性から接待を受けたとの記事が出たこともあり、別の雄一郎さん(玉木雄一郎さん)を立て、役員室長におさまっていました。
また、靖国神社参拝を欠かしていませんでしたが、2018年8月15日は翌夏の選挙でともにたたかう市民連合のみなさんの考え方を勘案して、参拝しませんでした。応援してくれる仲間の考え方を理解して、行動を変えるのは、現職政治家として当然のふるまいです。
祖父は朝日新聞記者出身のインテリ代議士ながら入閣できなかった羽田武嗣郎さん。あとを継いだ羽田孜さんは、同期の小沢一郎さんとの「つとむちゃん・いっちゃん」コンビは田中角栄さんの愛弟子として、佐藤栄作さんの薫陶を受けた先輩をしのぐ勢いで、自民党竹下派内で出世していきました。とくに、孜さんは農林水産大臣2回、大蔵大臣という先代の果たせなかった夢をはるかに凌駕する経歴をえて、そして内閣総理大臣となりました。
下野後も民主党初代幹事長として政権交代ある政治をもう一度めざした孜さんですが、すぐに党内情勢は混迷。そこに、参議院補欠選挙長野選挙区に民主党公認として初出馬し、圧勝。連続当選を続けたのが、雄一郎さんでした。
雄一郎さんは、千代田区立富士見小学校で学びました。宿舎のご近所で幼馴染である、加藤紘一さんファミリーが東大・慶大のインテリであることから、多様なりとも劣等感があったようです。やがて、成城学園中学に進学。竹下派で初出馬初当選から連続当選をするお父さんのことは知られていて、「なんで政治家の家なのに貧乏なんだ」といういじめに遭いました。その頃、小沢一郎さんは文京区湯島で相続した一軒家を売却してかなりのお金を得ていたようです。雄一郎さんはお母さんの愛情で、新潟県内の高校を経て、玉川大学を卒業し、保育師免許を取得。伊藤忠商事の系列の財団法人に就職し、衆議院議員秘書を経て、参議院議員に。
この間、偉大な父は総理大臣となっていきましたが、雄一郎さんの父や母への尊敬、愛情は絶大。しかし、もともと明治維新の負け組である長野県では、「東大か、信大か、高卒か」という考え方で、士官学校なども好かれません。
孜さんも父の東北大学などを念頭に置きながら、私立の成城学園へ。その後、父と同じ朝日新聞や、党人派の官房長官・自民党幹事長を連続して輩出していた日本経済新聞の入社試験を受けましたが、不合格に。雄一郎さんの議員宿舎の幼馴染の加藤ファミリーらが慶大などに進むなか、自身は思うような学業の成績を上げられなかったことには、コンプレックス、劣等感を持っており、それをはねのけた人生だったといえます。
このため、参議院国対畑をつとめ、たびたび、国対委員長、会派幹事長をつとめました。長野県選出のため、オーソドックスに、農林と国土交通を中心に国政キャリアを積んだため、通常国会の最中に国対委員長から国土交通大臣にシフトするという異例の人事でも、そつなく答弁し、内閣で最多本数の法案を成立させ、省内でも人望は厚かったようです。
上述の通り、医療コンサルタントについては、その妻が元民主党衆議院議員という付き合いですが、かばいきり、党代表は自らつきませんでした。長野県は人口200万人なのに、有名芸能人が峰竜太・清水アキラしかいないことはひそかに有名ですが、選挙区内の軽井沢に別荘をかまえた東京の有名芸能人から自宅に招待されると、喜んで行きましたが、それは実際には年1回以下のことだと思います。
お酒はほとんど飲まず、自宅である参議院麹町議員宿舎からハイエースを一人で運転して、衆議院赤坂議員宿舎へ。新人代議士10名を乗せて、党内基盤を固めていました。「国会議員になって、羽田総理大臣の息子の参議院議員に、東京、六本木の飲み屋を紹介してもらった」と大喜びだったそうです。小沢さんとは違う、羽田ファミリーらしい生き方をされていました。
奥さんが航空会社のキャビンアテンダントだったので、同僚の夫が枝野幸男さんという関係。また、きょうの記者会見で、福山さんも、1996年の衆院選で惜敗して参院選に出馬するまでの間、羽田幹事長の雄一郎公設秘書に世話になっていたことを、明かしました。
偏差値なんか高くなくても、「権力は腐敗するから、政権交代ある政治をつくるんだ」というたった一つのセオリーを、二代で通し続けた特筆すべき父子でした。
ご自宅だった、参議院麹町議員宿舎あてに、ご弔電をお送りしましたら、午前9時40分台に届いた、とNTTから連絡がありました。ご家族も濃厚接触者です。また宿舎にはいつまでいられるのでしょうか、ご配慮をいただきたいものです。
また、ここ数年の羽田ファミリーは「トシ先生」の愛称で、北澤俊美元参議院議員を頼っていました。もちろん篠原孝代議士や下條みつ代議士に一目置いていたことはいうまでもありません。またきのう付き添った政策秘書は、羽田孜代議士の晩年1年ほど、通例である「元総理経験者にはSPがつく」のを断って、羽田代議士の体を触りながら本会議場まで送り届けていました。偉大な羽田父子の議員生活最後の日まで、体に触れながら寄り添い続けた稀有な議員秘書ということになります。
東京の方の羽田家では、雄一郎さんの叔父にあたる、世田谷区で町内会長を務めた羽田さんも亡くなりました。やす子さんは次郎さんファミリーと暮らしており、今後もお元気でいていただきたいものです。
私自身、長野ルーツ、東京生まれ、男2人兄弟ということもあり仲良くさせてもらいました。私の早稲田大学政経学部在学中のサークル「鵬志会」で、女子学生が神楽坂の料亭でアルバイトをしていて、民主党の労組や財務省出身の議員も来ている。そう聞いて、「私は祖父・曾祖父・高祖父は村会議員だが、父は東京に出てきて社長とはいえ民間人。神楽坂の料亭というものには縁がない。でも行きたいから、次郎さんつきあってください」、と次郎さんに頼むと、次郎さんもあまり経験はなかったそうですが、つきあってくれました。そこで、女将さんの兄である社長は、千代田区立富士見小学校で、雄一郎さんと同級生だと判明。雄一郎さんに聞くと、「名前だけではちょっと分からない、クラスは違うと思う」とのことでした。なさそうでありそうな、東京の世界の話ですが、こういう世界と行きつ戻りつしながらも、雄一郎さんや、不肖・宮崎などは戻るべきところは戻っていけているな、と感じます。
とても残念ですが、さまざまな世界の往復には心労もあったかもしれません。
以前にも書いた話ですが、国民民主党が結党される直前の夏。参議院議員会館で、政策秘書と話しながら、雄一郎議員が議員室から出てくるのを待っていた午後1時半。雄一郎議員が出てくると「お!」と手を挙げてくれ「昼飯買いにコンビニに行ってくる」。政策秘書に「お忙しそうだから、コンビニから戻ってこられたら挨拶して帰ります」と言ったら、雄一郎さんが、アイスキャンデー2本を「はい」と政策秘書と私に1本ずつ。私は「じゃ、アイスキャンデー食ってから帰ります」とその後、数分間。そこにいました。
ちなみに、なぜ連続当選しても貧乏かということですが、バブル期に、地元の私設秘書どうしがお互いが身に着けている下着のブランドを競い合ったり、孜代議士が一年に一度も訪れない羽田事務所が東京にあったりした時期もあったようです。
同じことを同じように言い続ける。そこに居続ける。これはとても簡単なことに思います。しかし、どうやら、世間では逆に難しいことのようです。雄一郎さんのように父を尊敬し、愛するところ。政治の基本は家族だ。そういう基本を通した先に、東大や代ゼミでは教えてくれない、人の道、連続当選しつづける真の知恵があったのだとそう思います。ですから、その使命は既に果たされたのです。
以上です。