ある意味衝撃的な映画だった。映画「グリーン 森を追われたオランウータン」はドキュメンタリー映画であるが、インタビューやナレーションは一切ない。画面を通して聞こえてくるのは、風の音と森の中の動物たちの鳴き声だけ…。しかし、そのことがこの映画の訴求力を一層高めたように思われた。
5月14日(木)午後、札幌エルプラザ内の情報センターにおいてエルプラ・シネマが開催され、観賞の機会を得た。
映画の舞台はインドネシアである。インドネシアの豊かな熱帯雨林はパーム油の原料となるアブラヤシを植えるために森林伐採が進んでいる。森林伐採によって棲むところ失い、保護されたオランウータンに付けられた名前が「グリーン」である。
※ 写真は保護され生きる精気を失ったかのようにベッドに横たわるグリーンです。
映画は森林伐採の様子、アブラヤシの果肉や種子を収穫する様子、それを大規模工場でパーム油に生成する様子、パーム油を原料とする大量の商品が店頭に並ぶ様子などが断片的に映し出される。
それと同時に、伐採の進んだ山中に食料を求めて体中を泥だらけにしながら歩き回り、憔悴しきったグリーンが保護される。
私はオランウータンの顔に表情筋があることを知った。グリーンの顔からは生きることに対して諦観しきったような表情が確かに読み取れた。
およそ50分、インタビューもナレーションもなく、淡々と映し出す映画からは環境破壊を告発する強烈なメッセージが込められていたと感じさせられた。
私はテレビ番組でもこうしたドキュメンタリー物を好んで見る。それはドキュメンタリー物は映像を通して事実を伝えていると思うからだ。
しかし、今回の投稿をするにあたり、映画「グリーン」を評するある一文を見て、冷や水を浴びせかけられた思いをした。
それは次のような一文である。
(前略)
ナレーションは全くないが、こうした語法により意図は確実に伝わる。(中略)
したがって、観客が映画の作者の意図を見誤る可能性はまずない。きわめて雄弁な作品だ。
作品の評価はここからである。
個々の映像にはたしかに力がある。文脈は明らかに作為的だ。
で、ここが問題なのだが、作者が作りここで提示した文脈が正しいかどうかは、この映画自体からは判断できない。「ドキュメンタリーは嘘をつく」のである(森達也)。
だから、作品外の事情によって、作者の文脈に共感を感ずるならば「素晴らしいドキュメンタリー」ということになるだろうし、そこに疑問を感ずるなら「恣意的な作品」ということになるだろう。
(大友浩という文芸研究家と称する方のブログより拝借)
「ドキュメンタリーは嘘をつく」という森達也氏の指摘は私にとってはハッとさせられる指摘であるが、冷静に考えると頷ける指摘でもある。
しかし、大友氏が作品の評価に関して相対する二者を提示したが、私は少なくとも本作品において、作品外の事情は何もないが作者の文脈に共感したいと思うし、この「グリーン」というドキュメンタリーに関して嘘はないと信じている。