講師の話に、何度も何度もため息をつきながら聴いていた私だった…。「いったい、どこに出口があるんだろう」と…。複雑すぎるパレスチナ問題だが、その問題の一端を聴いた。
※ 本日はこれから外出し、帰宅するのが深夜になると予想されるので、予め投稿してから外出しようと考えました。
待望していた北大スラブ・ユーラシア研究センター主催の公開講座「動乱のユーラシア」~燃え上がる紛争、揺れ動く政治経済~ の第1回講座が5月11日(月)夜、北大構内で行われ、受講した。
第1回講座の内容は、「ガザ戦争後のパレスチナ:長引く紛争に翻弄される人々」と題して、東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所の錦田愛子准教授が務められた。
※ 錦田愛子東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所准教授です。
錦田氏はパレスチナ問題の中でも直近に起こった「ガザ戦争」後のガザ地区を訪れ、その悲惨な現況を語った。その前提として錦田氏はパレスチナ問題の歴史を簡単に紐解いてくれた。非常に複雑、混迷化の度合いを深めるパレスチナ問題であるが、錦田氏のお話も参考にしながら、私自身がパレスチナ問題を理解するために、私自身の理解でこの問題を整理してみたいと思う。
※ イスラエルとパレスチナ自治区の国境線の形も問題を複雑化させている一つの要因のように思えます。
そもそもの問題の根は、ヨーロッパにおけるキリスト教徒がヨーロッパ各国に在住したユダヤ教徒を排除しようとしたことが問題の根幹にあると私は理解した。誤解を恐れずに言えば、ヒトラー率いるナチスによるホロコーストもその延長線上にあったと言える。
問題は少し遡るが、第一次世界大戦が終了した時点で、当時まだ力がありヨーロッパの盟主を自認していたイギリスが、アラブ人にも、ユダヤ人にも、またフランスやロシアに対しても都合の良い解決案を示したのが、今日のそもそもの混迷の大要因のようである。(俗にイギリスの三枚舌外交と称されている)
このイギリスの解決案を盾にユダヤ人は1948年、イスラエル建国を宣言した。この建国に当然のように反発するアラブ側との間にパレスチナ問題が勃発した、と言ってよいのだろう。
その後の混迷については目を覆うばかりである。双方が武力をもって衝突を繰り返し、間に立って仲介しようとする国々にも思惑があったり、影響力がなかったりして和解にいたることはいまだ出来ていないし、今後の見通しも暗い。
また、当事者であるイスラエルにしても、難民化しているパレスチナ側にしても内部対立が激しい。特にパレスチナ側は徹底抗戦を主張するハマースと話し合い解決を目ざそうとするファハタの対立は根深い。
一方、イスラエル側は解決に向けての方法論の対立はあるものの、国民であるユダヤ教徒の間にホロコーストに対する根強い恐怖感があり、アラブ人を排除し安全な国家建設が国民の共通な思いであるという。(簡単な妥協は許さない)
このような状況でどんな解決策があるというのだろうか?これまでも幾多の国が、幾多の指導者がパレスチナ問題解決に取り組みながら、その解決を見なかった問題である。
暗澹とした思いをしながら本講義を受講した私だった…。
はたして中東(パレスチナ)に未来はあるのだろうか?
※ 本日はこれから外出し、帰宅するのが深夜になると予想されるので、予め投稿してから外出しようと考えました。
待望していた北大スラブ・ユーラシア研究センター主催の公開講座「動乱のユーラシア」~燃え上がる紛争、揺れ動く政治経済~ の第1回講座が5月11日(月)夜、北大構内で行われ、受講した。
第1回講座の内容は、「ガザ戦争後のパレスチナ:長引く紛争に翻弄される人々」と題して、東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所の錦田愛子准教授が務められた。
※ 錦田愛子東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所准教授です。
錦田氏はパレスチナ問題の中でも直近に起こった「ガザ戦争」後のガザ地区を訪れ、その悲惨な現況を語った。その前提として錦田氏はパレスチナ問題の歴史を簡単に紐解いてくれた。非常に複雑、混迷化の度合いを深めるパレスチナ問題であるが、錦田氏のお話も参考にしながら、私自身がパレスチナ問題を理解するために、私自身の理解でこの問題を整理してみたいと思う。
※ イスラエルとパレスチナ自治区の国境線の形も問題を複雑化させている一つの要因のように思えます。
そもそもの問題の根は、ヨーロッパにおけるキリスト教徒がヨーロッパ各国に在住したユダヤ教徒を排除しようとしたことが問題の根幹にあると私は理解した。誤解を恐れずに言えば、ヒトラー率いるナチスによるホロコーストもその延長線上にあったと言える。
問題は少し遡るが、第一次世界大戦が終了した時点で、当時まだ力がありヨーロッパの盟主を自認していたイギリスが、アラブ人にも、ユダヤ人にも、またフランスやロシアに対しても都合の良い解決案を示したのが、今日のそもそもの混迷の大要因のようである。(俗にイギリスの三枚舌外交と称されている)
このイギリスの解決案を盾にユダヤ人は1948年、イスラエル建国を宣言した。この建国に当然のように反発するアラブ側との間にパレスチナ問題が勃発した、と言ってよいのだろう。
その後の混迷については目を覆うばかりである。双方が武力をもって衝突を繰り返し、間に立って仲介しようとする国々にも思惑があったり、影響力がなかったりして和解にいたることはいまだ出来ていないし、今後の見通しも暗い。
また、当事者であるイスラエルにしても、難民化しているパレスチナ側にしても内部対立が激しい。特にパレスチナ側は徹底抗戦を主張するハマースと話し合い解決を目ざそうとするファハタの対立は根深い。
一方、イスラエル側は解決に向けての方法論の対立はあるものの、国民であるユダヤ教徒の間にホロコーストに対する根強い恐怖感があり、アラブ人を排除し安全な国家建設が国民の共通な思いであるという。(簡単な妥協は許さない)
このような状況でどんな解決策があるというのだろうか?これまでも幾多の国が、幾多の指導者がパレスチナ問題解決に取り組みながら、その解決を見なかった問題である。
暗澹とした思いをしながら本講義を受講した私だった…。
はたして中東(パレスチナ)に未来はあるのだろうか?