デザインとアートは似て非なるもの、と講師の織田氏は云う。そして作品としてのハードルが高いデザインが日本においては軽視されがちな現状を講師は嘆いた。講師はデザインミュージアムをぜひ北海道に作りたいと語った。
※ 開演前のステージです。両脇に並べられた椅子は世界的に有名なデンマークのデザイナーによる作品だそうです。
5月23日(土)午後、紀伊國屋インナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」に参加した。
この日のテーマは「椅子と生活文化」と題して、東海大学名誉教授の織田憲嗣氏が講師だった。織田氏は椅子研究家として知られ、東海大学芸術工学部教授としてこの3月まで勤められ、4月より名誉教授となられた方だ。
織田氏は冒頭「デザインとアートは似て非なるもの」と言った。
そして織田氏は両者の本質的な違いの前に、両者の置かれている現状から語り始めた。
それは監督官庁の違いに始まり(デザインは経産省、アートは文化庁)、日本国内にアート作品を展示する「美術館」は数多く存在するが、デザインに関する「ミュージアム」は皆無であると、その現状を嘆いた。
そして両者の本質的な違いに言及した。
アートは、作家本人が納得すればアートとして成立する。つまり作家の主観、感性が重んじられるのがアートであると…。
一方、デザインはクライアントがいて初めて存在するとし、しかもクライアントの後ろにはエンドユーザーが控えているという。つまり、デザイナーはクライアントやエンドユーザーの要望を分かりやすく具現化することが求められているとして、そこには絶えず客観的評価が付いて回るし、論理性が求められるとした。
織田氏は、デザインはアートと比較して非常にハードルが高いのだ、と強調した。
一つのデザインを作品(商品)として完成させるためには、アートとは違い、チームワークが求められ、スケジュール管理もしなければならない。さらには経済的な制約も受ける。人的な制約もある。その上、作品には機能性、審美性、そして個性も求められる。
こうした数多くのハードルを乗り越えて出来上がった作品の中には、多くの人が鑑賞するに値するものが多いし、それを保存する価値もあり、ぜひとも北海道に日本最初の「デザインミュージアム」を実現させたいと織田氏は語った。
織田氏の尽力によって、ぜひ実現してほしいものである。
ただ、織田氏はデザインの現況について一つの危機感を語った。それは、「デザインがアートに近づいている」ということだ。それは、デザインの世界において、クライアントの意向など考慮しないかのような、そして機能性とか、審美性を無視したかのような作品が登場していることについてだった。
この点について、私は織田氏の言に素直には納得できなかった。
というのも、デザインの世界も今や行きつくところまで行った感があるのではないだろうか?
あまりにもアート的で、実用に供しないようなデザインは当然淘汰されていくだろうと思われる。そのことを嘆くより、織田氏が忌み嫌うような奇抜なアート的作品の中に、これまで考えつかなかったようなヒントが隠されているかもしれない、と考える方が建設的ではないのか、と思ったのだが…。
講義はこの後、椅子の話に移っていったのだが、「家具デザイナーにとって、椅子をデザインすることは究極の目標」だそうだ。それは他の家具と違い、人の動きの中で使われる家具のため、「強度」が求められることで難易度が全く違ってくるから、ということだった。
しかし、椅子の話は私の問題意識をそれほどくすぐってはくれなかったので、ここでは割愛させていただくことにする。
※ 開演前のステージです。両脇に並べられた椅子は世界的に有名なデンマークのデザイナーによる作品だそうです。
5月23日(土)午後、紀伊國屋インナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」に参加した。
この日のテーマは「椅子と生活文化」と題して、東海大学名誉教授の織田憲嗣氏が講師だった。織田氏は椅子研究家として知られ、東海大学芸術工学部教授としてこの3月まで勤められ、4月より名誉教授となられた方だ。
織田氏は冒頭「デザインとアートは似て非なるもの」と言った。
そして織田氏は両者の本質的な違いの前に、両者の置かれている現状から語り始めた。
それは監督官庁の違いに始まり(デザインは経産省、アートは文化庁)、日本国内にアート作品を展示する「美術館」は数多く存在するが、デザインに関する「ミュージアム」は皆無であると、その現状を嘆いた。
そして両者の本質的な違いに言及した。
アートは、作家本人が納得すればアートとして成立する。つまり作家の主観、感性が重んじられるのがアートであると…。
一方、デザインはクライアントがいて初めて存在するとし、しかもクライアントの後ろにはエンドユーザーが控えているという。つまり、デザイナーはクライアントやエンドユーザーの要望を分かりやすく具現化することが求められているとして、そこには絶えず客観的評価が付いて回るし、論理性が求められるとした。
織田氏は、デザインはアートと比較して非常にハードルが高いのだ、と強調した。
一つのデザインを作品(商品)として完成させるためには、アートとは違い、チームワークが求められ、スケジュール管理もしなければならない。さらには経済的な制約も受ける。人的な制約もある。その上、作品には機能性、審美性、そして個性も求められる。
こうした数多くのハードルを乗り越えて出来上がった作品の中には、多くの人が鑑賞するに値するものが多いし、それを保存する価値もあり、ぜひとも北海道に日本最初の「デザインミュージアム」を実現させたいと織田氏は語った。
織田氏の尽力によって、ぜひ実現してほしいものである。
ただ、織田氏はデザインの現況について一つの危機感を語った。それは、「デザインがアートに近づいている」ということだ。それは、デザインの世界において、クライアントの意向など考慮しないかのような、そして機能性とか、審美性を無視したかのような作品が登場していることについてだった。
この点について、私は織田氏の言に素直には納得できなかった。
というのも、デザインの世界も今や行きつくところまで行った感があるのではないだろうか?
あまりにもアート的で、実用に供しないようなデザインは当然淘汰されていくだろうと思われる。そのことを嘆くより、織田氏が忌み嫌うような奇抜なアート的作品の中に、これまで考えつかなかったようなヒントが隠されているかもしれない、と考える方が建設的ではないのか、と思ったのだが…。
講義はこの後、椅子の話に移っていったのだが、「家具デザイナーにとって、椅子をデザインすることは究極の目標」だそうだ。それは他の家具と違い、人の動きの中で使われる家具のため、「強度」が求められることで難易度が全く違ってくるから、ということだった。
しかし、椅子の話は私の問題意識をそれほどくすぐってはくれなかったので、ここでは割愛させていただくことにする。