クラーク博士の教え子たちが苦難の末に創立したという札幌独立キリスト教会を訪ねた。案内していただいた大友浩主管者からはいろいろ興味深いお話を伺うことができ、さらにはクラーク像の原像となった石膏像との対面も叶った。
※ 大通西22丁目に建てられている第4代目の札幌独立キリスト教会の外観です。
「めだかの学校」が企画運営する講座「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」の第4回講座を昨日8日(月)、札幌独立キリスト教会を会場に開催した。
教会では現在教会を主宰(?)する大友浩主管者が対応してくれた。大友氏からは札幌独立キリスト教会の来歴について詳しく説明いただいた。それによると…、
※ 礼拝堂で大友主管者のお話を聴く受講者たちです。
札幌独立キリスト教会は、その名が示すようにキリスト教のさまざまな宗派とは一線を画し、独立した存在の教会である。それはクラークの在札中に、彼の教え子である一期生(16名)、二期生(15名)はクラークが起草した「イエスを信ずる者の契約」に署名し、入信した。彼らは、クラークが帰国してからも熱心にキリスト教について学び、教えを守った。(確認はできていないが、クラークはプロテスタントだったと思われる)彼らはキリスト教(プロテスタント)の学びを深める中で、非常に多くの宗派が存在し、同じキリスト教徒でありながら分かれていることに疑問を抱き、そうした既存の教会とは一線を画して独立した教会を持ちたいとの思いから、さまざまな苦難を乗り越えて自前の会堂を入手したことから「独立」という名を冠したのだと思われる。
※ お話をされる大友浩主管者です。
そうして1881(明治14)年10月、今の南2西6の地に「白官邸(しろかんてい)」と呼ばれる会堂を創設し、それまで別れ別れになっていた教え子たちが合流して礼拝を始めるようになったという。これらの若者たちのことは「札幌バンド」と呼称されていたともいう。さらには第2代目の教会となる「アカシアの教会」と呼ばれる教会を南3西6の地に建設している。
さらに教会の建物に関しては第3代として1922(大正11)年に大通西7丁目に「クラーク記念会堂」と冠して建設しているが、その会堂は「蔦の教会」とも呼ばれたようである。現在の建物は第4代目で1963(昭和38)年、現在地である大通西22丁目に「クラーク・宮部記念会堂」として建設され、現在に至っている。
その間のエピソードとして、最初の会堂を建てる時に当初は函館のメソジスト教会(プロテスタント系)が資金を提供してくれたそうだが、彼らが既存の宗派から“独立”すると知って、返金を要請されたためにその資金作りに相当に苦労したという裏話をうかがった。また、その際にはクラーク博士がアメリカから援助してくれたというお話もうかがった。
※ 礼拝堂前に設置されているクラークのブロンズ像(2013年設置)です。
さらには、「札幌バンド」と先述したが、明治の初期、国内には「札幌バンド」、「横浜バンド」、「熊本バンド」と三つの源流があったそうだ。しかし、「熊本バンド」は長くは続かずに解散に追い込まれたという。(系譜は京都の同志社に受け継がれるが)それは熊本の地が歴史があり、古くからの因習にとらわれていた地のため多くの迫害を受けたことで長続きしなかったようだ。対して北海道・札幌はそうしたしがらみが薄く、クラークの思想や生まれ故郷のマサチューセッツの文化がそのまま持ち込めるような土地柄だったということがいえるのではないかと語られた。
大友主管者のお話は静かな語り口であったが、多くの興味深いお話を伺うことができ、受講者も熱心にお話を聴いていたようだ。
質疑応答に移り、私が「礼拝堂の前のクラークのブロンズ像の原像は存在するのでしょうか?」と問うたところ、「資料室に保存されています」と言って、その原像を拝見する機会を得た。そこでも一つのエピソードが披露された。原像は1926(大正15)年に田嶼磧郎(たじませきろう)が制作した白い石膏製だったのだが、長年の保存でホコリが付着したり、変色が目立ったりしたそうだ。そこで信者の一人に靴屋さんがいたそうだが、その方がなんと!黒い靴墨を塗ってしまったという。(Oh my God! あ~あ…)私たちは真っ黒に塗られたクラーク原像と対面ということになった…。
※ こちらは資料室に保存されていたクラーク像の原像(石膏製)黒いのが残念!
「さっぽろの古を訪ねて」シリーズも4回を終え、残り2回となった。おかげさまで今までのところ受講者からは好評をもって受講していただいている。残り2回、できるかぎりの準備をして、みなさんに満足していただけるよう講座運営をしていきたいと思っている。
※ 新渡戸稲造直筆の書です。
※ なお資料室には新渡戸稲造の直筆の書が掲示されていた。その書の「With malice toward none, With carity for all」と記されていた。意味を調べてみた。「誰にも悪意を持たず、慈悲の心でみんなに接する」という意味だそうだ。