「おばあちゃんの原宿」としてすっかり有名になった巣鴨の地蔵通り商店街を訪れた。朝一番で訪れたのでまだ9時過ぎだったため商店街が賑わう前だった。それでも雰囲気はそれなりに楽しむことができた。
※ ちょっとマップが大きすぎましたね。私はこの商店街を右から左に向かって散策しました。
地下鉄都営三田線「巣鴨」駅に降り立ったのは9時半を回ったころだった。
駅を降りると直ぐに「巣鴨地蔵通商店街」の大きなアーチが目に入る。その商店街の入口近くに「真性寺」というお寺があり、大きな地蔵菩薩像があるというので寄ってみることにした。その昔、8代将軍徳川吉宗もたびたび訪れたという古刹のようだ。
※「巣鴨地蔵通商店街」の入口のところのアーチです。
※ 古刹「真性寺」の本堂です。左側に地蔵菩薩像が見えます。
※ 高さ2.68mあるという銅造の地蔵菩薩坐像です。編笠のために顔の表情が見えないのが残念!
その後、商店街の散策に移った。七夕が近いためか、色鮮やかな装飾が通りを飾っていた。その中に煎餅屋さんとか、佃煮屋さん、団子屋さんなど、いかにもおばあちゃんの好みそうな店が目立っている。
※ 七夕飾りが鮮やかな商店街の様子です。通りを通る人がまだまだ少ないですね。
※ たくさんの商店が並ぶ中の一店ですが、この店は大福餅のお店のようです。
通りを歩きはじめて間もなく「とげぬき地蔵」で有名な「高岩寺」の境内があった。どんな病にも霊験あらたかという延命地蔵菩薩(どけぬき地蔵)にはおばあちゃんたちが清水(?)をかけ、寄進していただいた布で丁寧に地蔵さんを洗っていた。
境内には土産物屋さんもたくさんあったが触手が動くようなものは見当たらず通過した。
※ 商店街の中ほどにあった「高岩寺」の山門です。
※ 有名な「とげぬき地蔵」さんを洗い清める善女の方です。
商店街は煎餅屋さんなどばかりでなくありとあらゆる商品を扱う店が軒を並べていた。ただ残念なことには、時間が少し早かったようで、開店したばかりの店、まだ開店していない店もあり、買い物客もまばらな状況だった。巣鴨地蔵通商店街をある意味で代表しているといって良い下着を販売する「マルジ商店」も開店前で残念だった。
そんな中、しっかりとコンビニも出店していたが、こうした商店街も時代の流れとともに変遷してきていることを窺わせてくれる。(100均ショップもちゃんとありました)
※ こちらも有名な赤パンツの店「マルジ商店」は開店前でした。
※ おばあちゃんの街とはいえ、ちぁ~んとコンビニは存在しました。
通りの後半に「ちはら街並み美術館」という私営の美術館があったのだが、ここも開館前ということで見ることはできなかった。
※ 通りから少し入ったところに「ちはら街並み美術館」はありました。
商店街の最後には猿田彦大神が祀られているという「巣鴨庚申塚」があった。神社の前には狛犬の代わりに左右に猿神が並んでいるところが特徴でしょうか。
※ 商店街の西の端にあった「巣鴨庚申塚」の門です。
※ 神を護るのは狛犬ならぬ猿神でした。猿のしたには、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が彫られていました。
この「巣鴨庚申塚」で巣鴨地蔵通商店街は終わりであるが、長さにしておよそ700m、ほんとうにさまざまな商店が軒を並べ、お年寄りには楽しく買い物ができる商店街のようであった。高齢化が進展する今、ますます発展する商店街なのかもしれない。
巣鴨地蔵通商店街…、なかなか魅力的です。
商店街を離れて直ぐに、東京で唯一の都電「荒川線」の駅があった。「こうしんづか」駅である。乗ってみたい誘惑にかられたが、この後の予定もあったので断念し、電車が走り去るのを見送った。
※ 都内唯一の都電「荒川線」の電車がとおりすぎます。
「あさくさ」駅から地下鉄で移動し東京メトロ日比谷線の「築地」駅に降り立った。東京の台所を支える街を巡ってみたいと思ったからだ。私が訪れたのは午後だったため、活気に満ちた雰囲気を味わうことはできなかったが…。
※ 私がウォークの指南書としたマップです。築地では矢印とは全く反対に歩きました。
このコースは乗り継ぎの地下鉄の関係で、私の場合はマップのゴール地点の「築地」駅からスタートし、ゴールを都営大江戸線「築地市場」駅とした。
「築地」駅に降り立って、まず直ぐ近くにある「築地本願寺」を訪れた。このお寺の外観は日本のお寺というよりはインド寺院風の建物である。非常に広壮な建物で、内部にはパイプオルガンも据えられていると聞いた。
※ 写真のように日本の中では一風変わった外観の「築地本願寺」です。
築地本願寺を後にして、この地にある「聖路加病院」を目ざすが、その前に「築地川公園」という小さな公園があったので一休みした。
そして「聖ルカ通り」を行くとこの一帯は聖路加病院関係の建物がドドーンと建っている。聖路加看護大、聖路加国際病院1号館、2号館、そして聖路加タワーである。周囲は緑に溢れ、一帯は別世界のような感じを受ける。
「聖路加」という名称が「St.Luke`s」という呼び名に漢字を当て嵌めたものだということを初めて知った。
※ 都会のオアシス「築地川公園」です。私もここで休憩を取りました。
※ 「聖路加病院」の正面(?)です。守衛が立っていますね。
※ 聖路加病院敷地の周りはこうした緑に囲まれていました。
※ 「聖路加国際病院」の英語表記はこのようになっていました。
そしてまたこの一帯は、「慶応義塾発祥の地」、「明治学院発祥の地」、「暁星学園発祥の地」などいう碑があちこちに見られ、その昔は学園都市的様相を呈していたのかもしれない。
聖路加病院敷地内の「トイスラー記念館」や敷地の隣に建つ「築地カトリック教会」の外観を眺めた後、隅田川沿いを歩くと開閉橋として有名だった「勝鬨橋」が見えてきた。
※ 写真の暁星をはじめ、たくさんの学校発祥の碑を目にしました。
※ 聖路加国際病院の宣教師館として建てられた建物で、明治8年の建造だそうです。
※ ギリシアのパルテノンを思わせる外観の「築地カトリック教会」の前面です。
「勝鬨橋」の袂に小さな「かちどき橋の資料館」があったので覗いてみた。開閉をしていた時代に橋桁を動かした大きなモーターが展示してあったが、他に見るべきものは特になかったようだ。
※ 開かずの橋となってしまった現代の「勝鬨橋」です。
※ 資料館内には往時の開閉橋だったころの勝鬨橋のミニチュアが展示されていました。
いよいよ「築地場外市場」に導かれる。界隈は狭い路地の両側にそれぞれ独立した小さな店がびっしりと軒を連ねている。全てが食品関係の店であることはいうまでもない。私が訪れたのは午後2時をまわっていただろうか。辺りにあまり人は見当たらず、どの店もそろそろ店仕舞いにとりかかっていた時間帯だった。それでも私が通りかかると、店子の方が声をかけてくるところがあった。
食事はすでに終えていたし、土産的なものを買うつもりもなかったので、ただ眺めながら通り過ぎるだけだった。
※ 「築地場外市場」の様子です。写真のように雑然とした感じですが、これがまた良いのかもしれませんね。
※ マグロの頭の部分ですが、利用し尽くした後の姿でしょうか?
場外市場をマップのコースどおり辿り、ゴールとした「築地市場」駅に向かおうとしたとき、「東京都中央卸売市場築地市場」の正門の前に出た。すると、大して車や人も通っておらず、中へ入っていけそうな雰囲気だった。注意を受けたら退散すればよい、と考え中へ足を踏み入れてみた。こちらも祭りの後の静けさ、といった感じだったが、水産物部仲卸業者売場とか、青果部仲卸業者売場などを覗くことができた。
※ 「築地市場正門」です。閑散としていたので中へ入ってみることにしました。
※ 仲卸業者の店舗ですが、すでに本日の商いは終了した後という感じです。
※ 市場の中の様子ですが、看板には「洋菜売場」と出ています。「
※ こちらは「水産物部仲卸業者売場」のようです。「カンパチ」と書いた発泡スチロールの箱が積まれています。
青果売場ではすでに翌日のセリにかけられる青果が大型トラックで続々と入荷しているときだった。たまたま目にしたスイカだけでも全国各地から集荷されたものが積み上げられていて、「さすが全国の食品が集中する築地だわい!」と感じ入った瞬間だった。
※ 私が目にしただけでも、「八街」、「鳥取」、「冨里」、「群馬」、「金沢」、「熊本」産のスイカが山積みされていました。
築地市場を出ると目の前に「朝日新聞社 東京本社」の社屋が目に入った。
そして私がゴールと定めた地下鉄都営大江戸線「築地市場」駅に向かったのだった。
築地市場はいろいろと紆余曲折はあったものの、近い将来廃止となり、市場は豊洲への移転が決まったようである。
そうするとこの一帯は再開発されるのであろうが、銀座が近いという立地などから近代的な街に生まれ変わりそうな予感がするのだが、果たして…。
東京下町ウォークシリーズを一休止して、最近の話題を一つレポートする。
7月6日、第24回目を迎えるPMF(Pacific Music Festival)が開幕した。初日の6日午後は芸術の森の野外ステージでオープニングのセレモニーとコンサートが開催されると友人から伺い、一緒に芸術の森に赴かせてもらった。なんとこのコンサートは無料で開放されているのだ。
開場前、入口に並ぶ聴衆のために今回のPMFの受講生だろうか?若手の演奏家が入場門の前で演奏してくれるという演出があった。
私たちは比較的早く並んだこともあり、一般客の中では最もステージに近い椅子席に陣取ることができた。
※ 開場前に入場門のところで演奏するPMFのメンバーたちです。
そしてここでもまたまた予定外のサービスがあった。
開会前に今回のPMFの教授陣による演奏でJ.シュトラウスの「春の声」が演奏された。手馴れたベテランの音という感じである。
※ 今PMFの教授陣によるサプライズ演奏がありました。
午後1時、PMFオーケストラ・ブラス・メンバーによる「市民のためのファンファーレ」で幕開けした。組織委員会理事長を務める上田札幌市長、PMFを後援する企業を代表して野村ホールディングスの代表の方の挨拶があった後、いよいよコンサート開始である。
最初は、昨年末の浜松国際ピアノコンクールで優勝したイリヤ・ラシュコフスキー(ロシア)さんのピアノ演奏である。リストの「ハンガリー狂詩曲」など2曲を演奏したが、若手プレイヤーらしい力強さと、時に奏でる繊細さが見事に融合した演奏だった。
※ 演奏を終え、聴衆の拍手に応えるラシュコフスキーさんです。
PMFヨーロッパと言われる今PMFの教授陣と今回の受講生(?)PMFオーケストラが一堂に会したフルフルオーケストラ(こんな表現があるのか!?)でステージ上には140~150人?あるいは200人近くの演奏者がいたのではないだろうか?
指揮は今PMFの客演指揮者アレクサンドル・ヴェデルニコフ氏が務め、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」の第1幕、第3幕の前奏曲、ヴェルディの歌劇「アイーダ」の前奏曲、そしてワーグナーの歌劇「タンホイザー」の序曲が演奏された。
クラシックにそれほど精通していない私だが、パーカッションや管楽器を含めて全体の音が一度に奏でられた時の音の迫力には圧倒される思いだった。
※ この大オーケストラを見てください!とても全員を一枚の写真に収めることができませんでした。
ふっと気が付いて後ろの芝生席を振り返ってみると、芝生席全体が人で埋まっていた。新聞報道によると集まった聴衆はおよそ4200人とのことだが、多くの人たちが青空の下での演奏を楽しんだようだ。
私も久しぶりのクラシックに心地良い思いを残しながら会場を後にした…。
※フッと気づく後ろの芝生席にはたくさんの聴衆が詰めかけていました。
この10数日、拙ブログのアクセス数で最もアクセスされているのが5月15日に投稿した「札幌日大高校野球部」である。それだけ高校野球は注目度が高いということなのだろろうが、そうなると今夏の南北海道大会に順調に駒を進めた札幌日大高について触れないわけにはいかないと思い、私なりに札幌日大高野球の今後を占ってみることにした。
私にとって一番の驚きはエース白崎が準決勝の対立命館慶祥戦(完投)、支部代表決定戦の札幌静修戦(8回)を無失点で抑えたということだ。
私が観戦した試合では、白崎君はいずれも相手校に手痛いほどに打ち込まれた試合ばかりだった。だから彼には厳しい見方しかできなかった。
以前にも触れたが彼の直球は最速135キロということだから高校生としては速球派タイプということができる。しかし、ピッチングマシンで打ち込んでいる現代の高校生にとっては十分に対応できる速さである。事実、国際情報高校打線はいとも簡単に白崎を打ち込んでいる。
その白崎君が2試合を無失点で抑えたというから俄かには信じ難かった。
新聞報道によるとこれまでの投球とは異なり、気迫を前面に押し出す投球を心がけたということなのだが…。
その快投ぶりをこの目で見ていないので、何とも言い難いところだが、もし白崎君が本当に覚醒したとすると一気に甲子園候補に躍り出ることを意味するように思われる。
札幌日大の打線については春の全道大会でも、今夏の支部予選でもその破壊力は折り紙つきである。毎試合かなりの得点が期待できる打線である。
こうして投打ともに高い水準に達しているとなれば、当然甲子園候補に躍り出たと言って良いと思う。
さて、過日南北海道大会の組み合わせが発表された。札幌日大は難しいBソーンの山を引き当ててしまったようだ。
初戦が毎年のように北海道大会に顔を出している実力校「北海道栄高校」である。ここを突破したとしても翌日に「北照高校」と「北海道室蘭大谷高校」との勝者との対戦が待っている。二日間連戦の上、春の選抜大会で2勝した実力校「北照高校」と対戦するとなれば、甲子園を目ざすうえでは最初の大難関ということが言える。
真夏の二日間の連戦ということになると、例え白崎君が初戦で快投を演じたとしても翌日の試合では十分な休養のないままでは実力を出し切れるとは思えない。救援投手(第二エース?)の存在が不可欠である。ところが私推奨の宮崎投手がどうも不調のようなのだ。もう一人の救援河原田投手の軟投にかけるしかないのか?果たして内情は?
いずれにしても各地の予選を勝ち抜いた15校が円山に集い、甲子園出場を懸けて覇を競う大会は興味十分である。
私は‘10年、’11年と南北海道大会の全試合を観戦したが、今年は全試合観戦するほどの気力も体力も自信はない。そこでせめて期待する札幌日大戦を中心に観戦し、その観戦レポートを書き綴ってみようと思っている。
出来得れば札幌日大高が4試合を戦って甲子園を掴み取ってほしい、と願っているのだが…。
東京へ行ったからには、やはり東京スカイツリーはチェックしなきゃ、というおのぼりさん的発想から先ずは訪れることにした。近代建築学の粋を集めた建造物であり、350m、450m上空からの眺めはそれなりに素晴らしいものであったが…。
※ 私が撮った中では最も良い出来と思われるので再掲しました。
前日のブログでも触れたが、地下鉄駅から直通ではなく、地上から施設に入ろうとしたところ、どこからは入ったら良いのかしばし迷った。その後、どうにか無事に施設内に入ることができ、4階のチケットセンターに導かれた。
※ 東京スカイツリータウン街の一角です。
チケットセンターには多くの客がチケットを購入(一人2,000円)するために並んでいた。チケットセンターで並び、エレベーターの前で並び、その後一気に地上350mにある「展望デッキ」に導かれたが、そこも混雑していた。
眼下に見える東京の街を眺めながらザーッと一回りしてみたが、特別な感慨は沸かない。何故なのだろうかと考えてみたのだが、ふだん見慣れていない街を上方から見たとしてもふ~ん、という程度のものなのかもしれない。
※ 入場チケット購入のために並ぶ人たちです。
※ チケットを購入した後、次はエレベーターに乗るために並ぶ人たちです。
※ 地上350mからの視界です。
※ 写真に見える大きな流れは隅田川です。
※ 地上350mの展望デッキの回廊です。
※ 展望デッキの一部にはこのようにスカイツリーの建築部材の一部が剥き出し(?)で出ています。
※ ガラス床と言われる下方が見えるようになっているところです。
せっかくの機会と思い、さらに1,000円の料金で100m上方の「展望回廊」まで昇ることにした。現代のエレベーターである。アッという間に地上450mの「展望回廊」に到達した。そこから見える東京の街は確かに「展望デッキ」から見る景色よりさらに東京の街が小さく下方に見えた。
そのとき思った。「あゝ、これは飛行機が飛び立った直後に見る景色と同じだ」と…。
私にとってふだん見慣れていない東京の街を仔細に見ようとする気持ちにはなれず、ここからの景色もザーッと一回りした程度で降りてきてしまった。
※ 地上450mからの眺めです。写真の中央は発展するウォーターフロントと思われます。
※ ガラス床とは違いますが、塔の真下の写真が撮れました。
※ 地上450mの展望回廊の様子です。
ちょっと下ネタ的話で恐縮だが、地上450mの「展望回廊」にトイレがあった。大して尿意を催したわけではなかったが、記念(?)に小用を足してみた。
男性トイレはそうでもなかったが、女性には私と同じ発想の方が多いのだろうか?たくさんの人が行列を作っていた。
※ たった一個しかなかった地上450mの男子用トイレです。
ところで東京スカイツリーは今年5月で開業1周年を迎えたそうだ。その間の入場者数はおよそ638万人だという。国民の約5%強が1年間で入場したことになる。国民が一度は入場するとして(そんなことはありえないが)まだ20年間もあのような混雑が続くのだろうか?
※ 外がまったく見えないエレベーター内で和の装飾が鮮やかです。
※ 展望デッキから展望回廊に向かうエレベーターの上方に窓があり、エレベーターの速さを体感できました。
東京スカイツリー建設の主目的は電波塔としての役割なのだが、東京の新観光名所としての役割をしばらくは果たしそうな感じである。
東京下町巡りでまず訪れたのは東京スカイツリーである。私もしっかりおのぼりさんをしようと思ったのだ。併せて界隈を巡り歩いてみた。今回のレポートはスカイツリーを除き、その界隈を歩いたことをレポートする。
※ 私の下町ウォークの指南書となったマップです。私は赤色のコースを忠実に辿りました。
私が今回の東京下町巡りの指南書にしたのは「東京スカイツリー&東京下町おさんぽマップ」という定価わずか500円の冊子である。これがなかなかの優れものだった。そこには東京の下町のお散歩コースが34コースも紹介されている。
これは私のこだわりの一つなのだが、マップに道順が示されていたら、そこを忠実に辿りたいということがある。今回も私はできるだけマップに忠実に歩くことを自分に課して下町を巡り歩いた。
※ 「押上」駅の地上に出ると、目の前ににょっきりと東京スカイツリーが現れました。
さて「スカイツリー界隈」編である。
私はマップに示されているスタート地点の東京メトロ半蔵門線の「押上」駅に降り立った。ここから東京スカイツリーが逆さに映るという北十間川に架かる「西十間橋」を目ざした。橋上からは確かにスカイツリーが逆さに映っていたのだが、風があり水面が揺らいでいたため写真としてはモノにならなかった。
※ マップ上のスタート地点はなぜか写真の「いこい食堂」になっていました。
※ 「西十間橋」を目ざして歩いた際の街の様子です。どこか下町の匂いを感じます。
※ う~ん。残念ながら逆さスカイツリーは写りませんでした。影だけですね。
「西十間橋」を折り返して、仰ぎ見るようにしながら「東京スカイツリー」の入口を目ざした。しかし周辺一帯がスカイツリータウンと化していて、おのぼりさんにとってはどこから入っていいのかしばらく迷ってしまった。後で判明するのだが、各地下鉄駅からは入口に直結する親切な案内が示されている。ということは、私のように地上からアクセスするような観光客はほとんどいないということなのかもしれない。ともかく苦労はしたが、なんとか入口に辿り着いた。(※ 東京スカイツリーについては写真も多いので、明日独立した形でレポートすることにして、今回はスカイツリー以外の界隈のウォークをレポする)
※ 隅田公園に向かう途中、問屋街のマンションなのでしょうか?1階に荷物が山積みです。
※ こんな狭い小路にも導かれました。「すみだ郷土文化資料館」があった通りです。
スカイツリー見物を終え(その様子は明日詳しくレポートする)、私はマップに導かれながら「墨田公園」を目ざした。ルートは細い道を辿り、下町(!)といった雰囲気を醸し出す界隈を歩く。するとルート上に「すみだ郷土文化資料館」という表示が目に入った。予定にはなかったがちょっと覗いてみることにした。訪れる人はほとんどいないようだ。係の人が、「待ってください。今照明を入れますから…」といった具合だった。
展示も簡素だったり、AV機器関係はほとんどが「調整中」だったりと、見るべきものはほとんどなかった。唯一、近くの隅田川が大学ボートレースの会場だったことを示すボートのオールが展示されていたのが特徴的なくらいだった。
※ 建物はそれほど古くはない感じですが、展示はお世辞にも立派とは言いかねました。
※ 唯一の特徴、各大学のスクールカラーに色分けされたオールが展示されていました。
資料館を後にして、直ぐ隅田川に面するように「隅田公園」がある。園内には「牛島神社」や「魚釣場」があり、園内を歩くと歴史を感ずるような公園である。
※ 「隅田公園」内の一角です。緑濃く歴史を感じさせる公園です。
※ 公園内にあった「牛島神社」です。病気を治してくれるご利益があるとか…。
※ 確か公園を出たところで目に入ったスカイツリーを撮った一枚です。
隅田公園を後にし、コースは隅田川に向かう。
隅田川沿いには墨田区役所、アサヒビールの社屋が並んでいる。アサヒビールタワーの屋上に鎮座する有名な金色のモニュメントは近くからは見えなかったが、隅田川に架かる「吾妻橋」上から見ることができ、スカイツリーと並んだところをカメラに収めることができた。
※ アサヒビール本社の金色の壁面に映ったスカイツリーです。
※ 写真左から墨田区役所、スカイツリー、アサヒビール本社、アサヒビールタワー上のモニュメントの順です。
隅田川は唱歌にも出てくる東京を代表する川であるが、さすがに堂々としていてゆったりとした流れが印象的な川である。水上バスも行き来していた。
その隅田川に架かる「吾妻橋」を渡るとゴールの「あさくさ」駅だった。
※ 隅田川に浮かぶ水上バスの発着所に留まっている水上バスです。
※ 「吾妻橋」を渡ると喧騒の中に「あさくさ」駅がありました。
東京スカイツリーの周囲は多くの人で賑わっていたが、その界隈を歩いたかぎりではそれほど人が溢れているといった感じはなく、普通の東京の下町の人たちの生活が営まれているように感じられた東京スカイツリーの界隈だった。
※ これはまたまたこれまでとは趣の違った概念図を見つけました。
吉田口ルートの登山道はこれまでも、そして本日も掲載したマップや概念図でお分かりのように登山道と下山道が分かれている。
「剣ヶ峰」組と分かれた私たちは4時55分下山を開始した。
最初は須走口ルートと重なる下山道である。登山道と違い岩石が卵大に砕かれたガレ場が続く中を下る。このガレ場は高さによって黒かったり、赤っぽかったりと、岩石に含まれる成分によって色は違うものの下山道ではずーっと続いた。
※ 下山を開始した直後くらいの下山道の様子です。
※ 左肩のとこに見える山小屋がどこかは特定できません。
吉田ルートと須走ルートが分かれる本8合目のところだけ登山道と近接するところがあり、そこは私たちが宿泊した「胸突 江戸屋」のあるところだった。その江戸屋に下山開始してから35分後に到着、一部荷物を預けていたのでそれをピックアップし、30分ほど休憩を取り再出発した。頭痛はまったく治まってはいなかった。
※ 8合目より下の方になるとこうした赤茶けた道になり、延々と続きました。
ここからは個々人が自分のペースで下山し、約束の時間(10時30分)までに5合目駐車場に集合するようにとリーダーから指示があった。
特に知り合いもできなかった私は単独での下山となり、頭痛と闘いながらひたすら黙々と下山を続けた。
マップや概念図でも分かるとおり、下山道は山を斜行するようにザレ場のジグザグ道が続く。
ザレ場の道はうまく歩かないと足底がズルッと滑ってしまう。持参したポール(ストック)を先に先に突くようにしながら滑らないように注意しながらの下山が続いた。
※ 写真のように何度も何度も折り返しながら高度を下げていきます。
天候はスカッと快晴とはいかなかったが、下界が見える程度に晴れてきた。湖が見えてきた。周りの人が「山中湖ではないか」といっていたが、はたしてどうなのだろうか?
赤い岩石のザレ場道が続く。ジグザグ道を何度折り返したろうか。折り返し点のところどころに標識が立っているのだが、○合目という標識は見つからなかった。通し番号のようなものが付いていたが私には理解できなかった。
※ 写真の真ん中に見える湖が山中湖ではないかというのですが…。
かなり下ってきてから小休止をしていたら、若い女の子同士が「あと何クネクネしたらゴールだろうね」と話をしているのが聞こえた。「クネクネ」とは折り返しが続くジグザグ道を彼女たちなりに表現したのだろうが、言い得て妙に思えた。
※ 岩石の崩落から登山者を守るこのような施設が何か所かありました。
下山道には一つも山小屋がないため、トイレもないのだが高さにして6合目くらいだろうか?「富士山公衆トイレ」なるものがある。そこを過ぎて間もなくすると森林限界に至り、緑が目に入ってくるとホッとする。道もザレ場から土が固まった登山道となり歩きやすくなる。
※ かなり下りてきて、森林限界の上限が見えてきました。
※ こうした注意書きが目立ちましたが、トレイルランをしている若者が多かったのですが、それは入らないのかな?
小休止を入れながら歩くこと約3時間10分、スタートした吉田口5合目駐車場にゴールした。時に午前8時35分。約束の10時30分まではおよそ2時間もあった。
一呼吸おいた後、友人から勧められていた「吉田のうどん」(750円)を食してみたが、残念ながら私の口にはあまり合わなかった。
※ 登山を終えた若者でしょう、私も同じ気持ちでした。
※ 私にはうどんが太過ぎ、スープも口に合わなかった「吉田のうどん」です。
時間がかなり余ったので、周辺をブラブラしていたときだった。
イベントバスが停まっていて何やらやっているようだった。近づいてみると、山梨日日新聞社がその場で世界遺産登録を記念して号外の新聞を発行していた。「記念に!」といただこうとすると、「いやあなたの顔写真を取り込んだ号外を発行しているのです」というではないか! しかも無料で!! 「これは最高の記念になる!」と思い、遠慮せずにお願いした。
写真を撮っていただいたから数分、山梨日日新聞の記者と話をしているうちに私の顔写真を取り込んだ号外新聞「富士山新聞」が出来上がった。
思いもよらなかったサプライズで何よりの記念品を手にした私はその号外新聞を大切に家に持ち帰ったのはいうまでもない。
※ 号外新聞に掲載された?私です。(今回とうとう顔を出すことになってしまいました…)
さて、その富士山の世界遺産登録騒動だが、現地に居てみてマスコミが騒いだほどではなかったのでは、という印象である。確かに報道陣はいたるところで目にしたし、私のグループの者も何人もが取材を受けていた。しかし、登山口や山頂で何かが変わっていたかといえば特に何も気づかなかった。登山口の土産物屋さんの前に小さなポスターのようなものが掲示されていたのが唯一それらしきものだったような気がする。
登録直後ということもあり、地元としても登録をどう受け止め、観光産業に結び付けていくのか、これからの課題ということなのだろうか?
※ 商店街に唯一掲示されていたポスターです。
登山口からバスで1時間余り、ツアーは富士吉田市の温泉に導いてくれた。疲れた体に温泉の湯が心地良かった。温泉から上がって飲んだ生ビールの美味しかったこと!!
心地良い酔いの中で「年来の夢を実現できたという達成感と、また一つ自分の体力的衰えを自覚させられたほろ苦さ」が私の中で交錯していたのだった…。
そしてその頃には私の頭痛はいつの間にか消え去っていた。
※ このマップで私たちが仮眠をとった山小屋は「上江戸屋」と出ている。
高山病のため頭痛に悩まされた私だったが、ガイドの励ましに勇気を得て、山頂にてご来光を仰ぐべく午前2時半に山小屋を出発した。しかし、一睡もしていない身体は一歩目から足が重く感じられ、行く末が心配な出発だった。
山小屋「江戸屋」のところが3,400m、吉田口の頂上が3,710mだから、標高差310mの登山である。
※ このように闇夜にヘッドランプがほたるの灯りのように見えた。
辺りは漆黒の闇の中、まるでホタルの灯りのように登山者のヘッドライトが点々と灯っている。登山路は前日のような岩壁はあまりないものの、階段のように積み重なった岩石を踏み越えながら、ジグザグに高度をかせいでいく。
しかし、昨夜一睡もできなかった私の体は疲労がまったく取れていなかったようだ。出足から足が思いのだ。「大丈夫だろうか?」、「皆に付いて行けるだろうか?」と不安が頭をもたげた。
ところが!! 7月1日、山開きの日のご来光を見ようと大勢の登山客が登山道に殺到したために、登山のペースが極端に遅いのだ。前がつかえてなかなか進まないのだ。その間当然休まねばならない。このペースが私には幸いした。
※ 9合目のところに建てられていた鳥居です。
9合目(3,600m地点)を3時25分に通過。横を見ると朝焼けが始まり、ご来光の時間が近づいていることが分かる。
※ ヘッドランプの灯りが続々と続きます。
※ 9合目を過ぎたあたりから雲が茜色に染まりだしました。
遅々として進まぬペースに、ガイドはご来光に間に合わないのではないかと思ったらしい。一列縦隊ではなく登山道が広がったところでは二列になって登るように指示がでた。すると後ろからどんどん追い抜いていく者が現れたが、私のペースは今までどおり。辺りから闇が遠ざかりヘッドランプも必要なくなってきた。
※ すでに山頂に達した人たちがご来光を待っています。
※ いよいよ空は茜色に染まり、ご来光が間もなくといった雰囲気です。
上方にはすでに山頂に達し、ご来光を待つ人たちの姿が見えてきた。しかし、すぐに意識は目の前の岩を一歩ずつ登るために集中する。「ゆったりペースでもいつか山頂に届くだろう」と…。
すると山頂前に建つ鳥居が目に入ってきた。もう一息だ!
※ とうとう山頂直前の鳥居に到達です。あと一息です!
山小屋から悪戦苦闘することおよそ2時間。午前4時25分、ようやく富士山々頂(吉田口)に私は立つことができた。
山頂に立ってほどなく、雲間の中に輝く陽光を見ることができた。
その時、山頂にいた人たちの数はざっと見て5~600人くらいだったろうか?
※ 多くの人が山頂の標識の前で記念写真を撮っていました。
※ ご来光の瞬間です。鮮やかとは言い難いですが、苦労して登った末でのご来光は特別でした。
ところで私はここで断っておかねばならないことがある。それは7月1日付の投稿で「日本のてっぺんに登った」と記したが、それは正確ではない。
私が立った頂上とは、吉田口登山口の頂上(3.710m)である。
本当の日本のてっぺんは、富士山の火口を囲むようにして屹立するいくつかの峰の中の一つ「剣ヶ峰」(3,776m)なのだ。
※ 富士山の火口の様子です。「剣が峰」は写真の左側でした。
ガイドがそこに登る希望者を募った。当然私も応募しようと思っていたのだが、体調の悪さはいかんともし難い。これからさらに50分程度登らねばならないという。私の中に「剣ヶ峰」を目ざす体力も気力も残っていなかった。残念ながら断念することにした。ツアーの中からは1/3くらいの人たちが「剣ヶ峰」をめざし、残りは下山することにした。
※ ふだん記念写真を撮ることがない私ですが、やはり富士山は特別です。
山頂はやはり寒かった。記録を調べてみると7月1日の夜明け前はマイナス0.2℃だったようだ。真冬といっても過言ではない。
多くの時間と体力を費やして到達した富士山頂だったが、寒さもあって滞在時間わずか30分間、4時55分に5合目目ざしての下山を開始した。
※ 予定が違ってしまいました。もう一編、下山編を明日レポートすることにします。
※ 前編とは違った吉田口ルートの概念図を掲載しました。
7合目に達し、最初の山小屋「花小屋」を通過した後、登山道の様相は一変した。ゴツゴツした岩場が私たちの前にそそり立っていた。時には手足を使って這うように登らねばならないところもあった。
岩場を一つ越えるとそこには山小屋、というように次から次へと山小屋が現れた。
私の記録によると、「花小屋」のところで小休止した後、4軒目の「富士一館」のところ2,800m地点で小休止している。この間「花小屋」から「富士一館」まで40分かかっている。つまり高度を100m上げるのに40分を要したということだ。
※ このような岩場が次々と現れるようになりました。
※ 2,800m地点の山小屋「富士一館」の前です。
岩場登りは続く…。
一つの山小屋を通過し、「東洋館」のところで小休止。ここで標高2,915m。私の記録によるとこの間は20分しかかかっていない。これはどういうことなのだろう?
ここから私はブログに投稿している。その中で「おそらく宿泊の山小屋はもうすぐだと思う」と記したが、それはまったく甘い希望的予想だった…。この時点で14時55分である。
※ こちらは2,915m地点の「東洋館」です。
※ それぞれの山小屋は強風によって屋根が飛ばされぬよう屋根に大きな石を載せていました。
※ 激しい登りの中での岩場で小休止、ホッとする瞬間です。
徐々に、徐々に高度を上げながら岩場登りは続く…。
徐々に、徐々に苦しくはなってきたが、あの天狗山登山の時のようないっぱいいっぱい感はない。小刻みに休憩を入れてくれていることで助かっている。
15時50分、ようや8合目の山小屋「太子館」に到着する。ここで標高3,100mである。
※ 山霧に包まれる中、岩場登りが続きます。
※ 3,100m地点の山小屋「太子館」の前です。
私たちの宿泊する山小屋は8合目と聞いていたので「間もなくかな?」と期待したのだが、ガイドに聞くと笑って答えてくれない。答えてくれないはずである。私たちが宿泊することになっていた本8合目「胸突 江戸屋」はまだまだ遥か上方にあったのだった。
この頃からガイドは「あの山小屋まで頑張りましょう」と上方に見える山小屋を目標に設定して私たちを励まし続けた。
3,200m地点の「白雲荘」を16時40分、3,250m地点の「元祖室」を17時10分に通過した。
※ 私たちが位置する地点は完全に雲海の上です。
※ しつこいほどの岩場登りが続きました。
※ 標高3,250m地点の山小屋「元祖室」の前のテラスです。左側は切り立った崖になっています。
※ 標高も高くなったここら辺りでは雪渓も見られました。
この頃になると、陽も傾きはじめ辺りは夕方の雰囲気に包まれ始めた。「いったいいつ着くのだろう?」との思いが募ってきた頃、ガイドが「あの山小屋が今日のゴールです」と初めてゴール地点を明示してくれた。
「元祖室」からさらに登り続けること35分。17時45分、ようやく本8合目「胸突 江戸屋」に到着した。5合目登山口からここまでに要した時間実に6時間05分ということになる。ペースとしてはかなりゆったりペースなのだろう。標高3,400m地点での一泊ということになった。
※ 悪戦苦闘の末、ようやく本日のお宿「胸突 江戸屋」に到着した。
この江戸屋が凄まじかった。おそらくツアー会社と太いパイプで結ばれている山小屋なのではと思われる。山開き当日の宿泊とあって、狭い山小屋に実に150名近くが宿泊することになった。もうてんやわんやのごった煮状態である。
※ 夕食のハンバーグカレーです。この他の山小屋内の写真は撮りませんでした。
夕食は三交代に分けて行われた。メニューはハンバーグカレーと3,400m地点で食べられるメニューとしては上等である。食材などはヘリで運ばれるのだろうか?
食後は次のグループのために寛ぐこともできない。すぐに就寝場所に引っ込まなければならなかった。
私はここでブログを投稿している。その中で「少々頭痛を感じます」と書き送っているが、この時点ではまだ自分が高山病を患っていると気づいてはいなかった。
その就寝場所には一応敷布団と寝袋が用意されていたが、幅が人一人の幅しかないのだ。寝返りも打てない状態だった。このことも頭痛ととともに眠れぬ要因だったのかもしれない。眠れぬまま2~3時間過ごしたが、堪らず私は起きだして食事を摂った広間で時を過ごしたのだった。(その時の様子、心境ついてはこちらを参照ください。①⇒ ②⇒)
※ 最後の胸突き八丁、そしてご来光を仰ぐ様子は後編にてレポートします。
※ 吉田口コースの場合、登山路は紫色、下山路は赤色とコースが分かれていた。
6月30日朝7時30分、新宿の集合場所に集合した私たちのツアーのAグループは45名である。(この日は私の利用したツアー会社は二つのグループを催行した)
1度の休憩を含めて11時前に富士山5合目にあたる富士吉田口に着いた。この時点で標高は2,305mである。すでに私が体験している北海道の最高峰旭岳(2,291m)の標高を超えていた。
※ 5合目の登山口は写真のように山霧に覆われていました。
ツアー会社が契約している土産物店&レストランで登山支度を整え、名物「ほうとう」でお腹を満たし、酸素缶を購入し、さらには金50円の利用料を払いトイレを済ませて出発準備を整えた。
私たちをリードする山岳ガイドから登山上の留意事項を聞いた後、11時40分いよいよ登山開始である。
※ 登山前に山梨名物「ほうとう」でお腹を満たしました。
※ 5合目はご覧のように登山客、そして報道陣でごった返していました。
最初の20分ほどは関係車両の走行もできるような道が続くが、すぐに登山道に入り整備されてはいるがけっこうな上りが続く。ただ、ガイドが思っていたよりゆったりしたペースで進んでくれるし、休憩も小まめに取ってくれる。
「これは案外楽な登山になるのかな?」と思った。しかし、今になって考えると私は登り初めからすでに未体験の高さの中を登っていたのだった。
※ バスを降りて約20分歩き、いよいよ本格的な富士山登山開始です。
※ 本格的な登山開始後すぐに写真のように横倒しになりそうな木が目に入りました。
徐々に高度を増しているのだが、周りは霧がかかり何も見えない。風がないこともあり身体中に汗をかいている。
登り始めて50分後の12時30分、6合目に達した。ガイドはさかんに深呼吸を勧める。(後から考えるとこれは高山病を予防するための一つの措置だった)この6合目で標高は2,390mである。
※ きめ細かに休憩を入れてくれるガイドの配慮に感謝しました。
※ 山開きとあって、どこでも報道陣に遭遇しました。私たちのグルーブでも相当数の人が取材を受けていました。
記憶は定かでないのだが、6合目から7合目にかけても斜度はどんどん増していったが、登山路はガレ場が中心でつづら折りの登り道が続いた。
6合目から約1時間後の13時35分、最初の山小屋である「花小屋」に着いた。ここが7合目で標高は2,700mだった。
※ 写真のようなつづら折りの登山道が続きます。
※ これは確か私たちの前を行くグループだと思います。
7合目までは比較的易しい登山路だったが、山小屋が現れたとたん登山路の様相は激変し、ここからは急な岩場が延々と続くのだった。ここまで私は他の人同様に、休みの度に酸素缶を口に当て薄くなった酸素を補給していたのだが、どうやらそれだけでは体のほうは徐々に酸素不足になっていたようだ。
鎖をつけるほどの岩場ではないにしても、相当の急角度での岩場上りが続いた…。
※ 登山道が崩れないよう写真のような保護する設備が目立ったのも富士山でした。
※ 吉田口コースで最初に現れた登山小屋「花小屋」です。登山道のすぐ脇にあるため全体像が撮れません。
(続きは明日に)