きょうは午前中に小学校での会議、午後は研修会と忙しかったです。昼食後にお昼寝をすることができませんでした。これは辛いことです。午後からだけの会議等ならまだいいのですが、午前中からとなると体力のなくなった身としては少々辛いものがあります。いや少々ではなく、”かなり”かな。
いま夕方の午後5時半近くです。毎日記録している気温ももう固定していいでしょうね。最高気温は22.4度で、午後1時33分の記録です。日中の気温はほとんど動きがなく、1度から2度の範囲内で動いています。
きのううちの奥さんが柿の木の近くでセミの抜け殻を見つけました。小さいですね。近内も小さかったかな?アブラゼミやミンミンゼミではなくツクツクホーシかなと思ったりして。でもきれいに背中が縦に割れています。無事生まれて成虫となって飛んで行ったのか、そう思いたいですが。
そういえばセミの鳴き声はいつ頃聞いていただろうか?自問しますが自答とはなりません。全く思い当たらないのです。少なくとも今年はまだ聞いていません。去年はいつ頃聞いたのか?おととしは? まったく、どうしようもないです。
もう7月も下旬に入ったのですよ。7月下旬の21日。土用にも入っています。でも今朝の河原の散歩で聞いた音があります。なんかこれも久しぶりだなあと感じました。とっても懐かしく感じました。カジカガエルです。分流の上流域と下流域の瀬で軽快に歌っていました。
そのほかは音なしの構えかな。鳥が鳴かなければ静かです。静寂そのもの。でも昆虫は確実に生まれているようです。生命の循環は生きています。よかったです。蛇の姿を目撃したいのですが、この辺に蛇は住んでいるのかどうか。もういないような気がします。残念ですが。
本当に小さい昆虫が足元でちょっとだけ動いたりして、存在感を主張しているのでしょうか。可愛いいし健気でもあります。無事成長して卵を産めるようになるのは、ぐっと少なくなるのでしょうが、元気に育ってほしいです。
羽が全く生えていない、少ししか生えていない昆虫、バッタの子どもなんて頭でっかちで愛おしくさえなります。なりませんか。必死に大きくなろうと生きているのですよ。大したものです、見上げたものです。
きのう頂いた「スタイルアサヒ8月号」です。この中の連載物に「診療所の窓辺から」という地方の医者小笠原望さんのエッセイがあります。面白い視点だなあ、と感心しました。
『「八十歳は初めてです。」診察室での患者さんのひと言にはっとした。六十歳も百歳も、そういえばその人にとっては初めての体験なのだ。未知の世界を実は、みんな毎日繰り返しているのだ。』
そうなのですよね!生きていくということは、、その人にとってはすべて”初めての体験”なのですよね。そう考えれば不安になるというのもうなずけます。そういう現実を受け入れて、自分なりに生きていく、それがその人の人生か、なんちゃって・・・・。
今朝の朝日新聞の声欄からです。岐阜県の81歳の鷲見さんという方からの投書です。
『親友の一人が80歳になって英会話の講座を聴き始めました。「今始めれば必ずあの世で役に立つ。もし人間に生まれ変われば、一からでなく生前の基礎の上で頑張れるんだよ」』
すごい発想ですね。こういう発想ができれば死も怖くないかもしれませんが、それはそれとして死は怖くても、怖い方がいいのかもしれないなあなんても思います。
正直に告白します。NHKのロシア語講座は2か月で終了しました。諦めました。ついていけません。一応6月分のテキストまでは買いましたが。