アレックス・カー、2020、『ニッポン巡礼(集英社新書)』、集英社
本書を手にとってみたら、取り上げられているところに行ったことがあるとしても、紹介されている場所には行ったことがないなど、知らないこととところばかりだっった。今どきは便利なので、Google Mapsをつかって、どこなんだろうと探しながら読んでいった。
しかし、本書の最後の「三浦半島」の章を読んでいるうちにようやく著者の言わんとするところが見えてきたように思う。たとえば、江戸時代の松尾芭蕉の『奥の細道』のように、たとえ、読んで行ったみたいと思ったところで、当時の事情からすると誰でも行くことができない場所を芭蕉は旅をしていた。一般の人々の読み方の第一としては、行ってみたくなるような記述を見出したとしても、行くことはできない場所と認識し、記述されていることで十分堪能するという楽しみというある種の禁欲があっただろう。紀行文、紀行文学というのは、まさにそうしたジャンルとして生み出されてきたものだ。
もっとも、同じような時代の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、もうすこし、ハードルが低かったかもしれない。というのも、伊勢詣は、当時であったとしても、庶民の旅として可能性がゼロではなかったから。だから、十返舎一九もそのことを意識して、「やじさんきたさん」には名物の案内もさせている。
翻って現在、Google Mapsで好奇心を掻き立てられ、ネットを類って情報を仕入れさえすれば、条件さえ許せば、すぐ明日にでも出かけることができる。宿の予約だって簡単だろう。もっとも、コロナ禍にあっては、ハードルが少し高くなってはいるが、それでも、江戸時代の比ではないことはあきらかだ。
著者は、一般的なツーリズムとは異なっているとはいえ、ツーリズムのこれまで関わってきた。ただし、一般的なツーリズムが目を向けることのなかったものに、目を向けるという形で。その著者が「巡礼」とタイトルに付けたのは、まさに、そのオルタナティブ・ツーリズムを意識したものではある。
しかし、同時に本書に散見されるのは、悪く言えば「上から目線」な記述であり、一般のものは来るなよ!、おれたち目利きの者たちだけの特権だからという響きが感じられる。本書のようなことを書いてオーバーツーリズムになるのは嫌だけれど、ということばもまた、散見される。それにもかかわらず、本書の帯の惹句には「日本には、こんなに美しい場所がある。観光地ではない、知る人ぞ知る隠れ里へ・・・」と言葉が書かれている。
じゃあ、本書を書いた意図はなにか、よくわからなくなってくる。至って矛盾に満ちた行為に見えてならないのだが。