South Is. Alps
South Is. Alps
Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


レモンチキン、ナバナとトマトの温野菜

熊本出身の同僚が年末に送ってくれた晩白柚、一つ切ってみた。ママレードを作ってみよう。白い綿の部分を少し残しつつも切り取って千切り、3度茹でこぼしして、水に晒し、その後、果肉少々をくわえて、砂糖等で煮る。水分が少なくなってきたところで、レモン汁と白ワイン、シナモンスティックを加えて煮込む。なかなかうまくいったのだではないかな。休み明けに、同僚に配ることに使用。同じ時間、家内はフランスパン風を焼いたのででは洋風にということになった。

レモンチキン:シイタケの軸を細切り+ニンニク薄切り+オリーブオイル+鶏もも肉+玉ねぎ薄い串切り+シイタケ8分切り+れんこん厚めに筒切り+赤唐辛子+ローリエ+塩こしょうを炒める。白ワインと少々の水で煮る
ナバナとトマトの温野菜:ナバナを一口に切って塩ゆでして水にさらしてよく絞る。おろしたパルメジャーノチーズ+バルサミコ酢+塩こしょう+イタリアンハーブミックス+フレッシュオリーブオイルでよくあえる

2021-01-10 21:26:42 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


青椒豚肉絲、小松菜の塩炒め、黒酢辣湯

後期最後の収録終了、やれやれ。あとは、本番時間でのディスカッション(来週金曜、反転授業のつもりだけれど)を残すのみ。

青椒豚肉絲:豚ロース生姜焼き用を細く(といって、1センチ近くあるが)切って、薄切りニンニク+千切り生姜+ごま油でいためて、コショウ+オイスターソース+紹興酒
小松菜の塩炒め:先の豚肉と縮小松菜+塩こしょう+紹興酒
黒酢辣湯:ガラスープのもの+黒酢+ナンプラー+薄口醤油+戻した塩蔵ワカメ+溶き卵

2021-01-09 22:04:28 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


七草リゾット、王子サーモン

七草リゾット:七草セットをリゾットにする。出汁はガラスープの素。塩こしょうをくわえる
王子サーモン:添え野菜として茹でたブロッコリーと焼き茄子(フレッシュオリーブオイル+塩こしょう+バルサミコ酢であえたもの)

2021-01-08 20:50:17 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


パスタミートソース

パスタミートソース:万願寺とうがらしをグリルして、添える。トマトを四分して添える。タマネギみじん切り+合挽きミンチ+ぶなしめじ+トマトソース+赤ワイン+ナツメグ+チリーパウダー+パプリカ+赤唐辛子+ローリエ+塩こしょう。パスタをアルデンテに茹で加える

2021-01-07 20:11:07 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


豚ロース生姜焼き、小松菜の胡麻和え、炊きたてご飯

豚ロース生姜焼き
小松菜の胡麻和え
炊きたてご飯

2021-01-06 20:45:51 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


鯛の切り身のフライ、前夜の鍋の残りのリゾット、ほうれん草とトマトの温野菜

年頭の出勤日、会議。休みの間の暖房がなかったので、建物が冷え切っていて寒かった。

鯛の切り身のフライ:鯛の切り身を塩こしょう+小麦粉をふり+溶き卵をとおして+用意のパン粉(叩いて細かくし、オリーブオイル漬けニンニクみじん切りを加え、塩こしょう、パセリみじん切り、おろしたパルメジャーノチーズ少々)でからめて、オリーブオイルで両面をじっくりと焼く
前夜の鍋の残りのリゾット:ガーリックオイルで生米を炒める+ぶなしめじ+タマネギ薄切りを加える。白ワイン+前夜の鍋の残り汁をくわえ、塩コショウして、アルデンテに火を通す。仕上げにおろしたパルメジャーノチーズとフレッシュオリーブオイルをかける
ほうれん草とトマトの温野菜:ほうれん草をざっくり切って塩ゆでして水に晒し、おろしたパルメジャーノチーズ+マイヤーレモン汁+塩こしょう+フレッシュオリーブオイル+松の実+プチトマト四分をよくあえる

2021-01-05 21:02:28 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


鱈ちり

午後、一本収録。その後、建中寺に向けて散歩に出る。今日の行く先は平坦で、距離もなく、5キロ、7000歩ほどだった。

鱈ちり:年末に江南の畑から届いた白菜と大根をつかおうということで。

2021-01-04 20:56:14 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


メンチカツ、ゴルゴンゾーラパスタ、ベビーリーフのサラダ

三が日、三日目は約10000歩、7キロほど早足で歩いた。今日は、初詣の社寺はなく、ひたすら早足でアップダウンの道をあるいた。歩幅を広くとって歩いてみた。汗ばんで、着替えをした。気温がそれほど低くなかったせいか、上空の湿気が飛沫のようにおりてきて、雨未満といった濡れ具合であったので、道中なんどか眼鏡の水滴を拭った。

メンチカツ:タマネギみじん切り+牛ミンチ+卵+塩こしょう+よくねってまとめておく。ひらたくして、小麦粉を付け卵を通し、用意のパン粉(パン粉を少々砕く+パセリのみじん切り+オリーブオイル漬けのニンニクみじん切り+オリーブオイル+コショウ)をつけて、オリーブオイルでじっくりと返しながら火を通す
ゴルゴンゾーラパスタ:タマネギ薄切り+マッシュルーム薄切り+シイタケ薄切り+オリーブオイル漬けニンニクで炒める。ゴルゴンゾーラ+白ワイン少々+コショウ、アルデンテに茹でたショートパスタを絡める
ベビーリーフのサラダ

今年のPasquiniのフレッシュオリーブの味比べということで、残り一本の2018年もの、2019年ものとくらべた。今年のそれは、抹茶色とのネットでの評価の通り、緑色の濃いもので、もちろん、今年のそれがいちばんだが、かといって、過去のものも、時間が立っているとはいえ、わるくはない。

2021-01-03 21:29:08 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


おせちの残り、ローストビーフの残り、菜の花の辛子胡麻和え

15時頃から、前日に続き腹ごなしのために近所の社寺を巡った。丸山神社、伊勝八幡、城山神社、日泰寺。今日も9000歩、6キロ以上を早足で歩き、汗をかいて帰ってきた。

おせちの残り、ローストビーフの残り、菜の花の辛子胡麻和え

2021-01-02 22:07:03 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ウンコロジー入門』

伊沢正名、2020、『ウンコロジー入門』、偕成社

人間に限らず、動植物を問わず生命の営みに使用した外部のもの、これを利用したあとウンコとして外部にまた戻す。このウンコは回り回ってすべての生命循環のもととなっていく。著者のノグソの実践と観察はまさにそれを実証しようというものだ。数十年の間著者はノグソを繰り返しそれを観察してきた事実、それを踏まえて書かれているのが本書。分解されたものを口にするところまで実践したのだから脱帽と言うしかない。

ここでは、私の関わったノグソについて少し記しておきたい。
わたしは、大学時代、山岳部の先輩にお世話になった(といって、私は山行に付き合ったわけではない)のだが、かれらは、キジ撃ちを教えてくれた。キジ撃ちとはもちろんノグソのことである。また、私の恩師のひとりは、これは親の教えだと言って、排尿はトイレには行かない。もちろん、外での話。こんな人達にかこまれていたとはいえ、わたしにとって最大の危機は、最初のフィールドワークのミクロネシアのサンゴ礁の小島での経験だった。

私はこの小島で約8ヶ月暮らしたのだが、通船は2ヶ月に1度、電気ガス水道はなく、海岸に出ても、無人島以外の島影は見えない、しかも、人口も100人未満というところだった。まだ連絡船が私を連れてきた夜、船で寝たのだが、夜は椰子酒の飲み会に呼んでくれた。その際、尿意を催してトイレはどこかと聞くと、そのへんのヤシの根元でしろという。しばらく我慢すると、くらやみにかくれて、男がしゃがみこんでいるのが見えた。男もしゃがんでするらしい。それにならってした。
翌日から、私の島での生活が始まった。朝船から荷物をあてがわれた家に運び込み、船は出ていった。小用は、前夜に知った。では、大はどうする。問題は翌朝だった。どこですればよいのだろう。前夜の飲み会のときは暗かったからよくわかっていなかったが、ココヤシの木立に家が何軒も並んでいて、さすがにどこでもいいといわれても、憚られる。
やむなく、散歩ということで、裏海岸に向かう小道をたどった。スコップを持っているわけでもないし、かといって、ちり紙もつかう。考えたのは、海に流せるかということ。裏海岸はくるぶしほどの海水が続くだけで深みがない。岩陰もない(サンゴ礁の島なので、そもそも、大きな岩はめったにみられない)。やむなく、大海原を向いてしゃがみこんだ。目的は果たしたものの、排泄物やチリ紙が至って目障り。といって、満潮まで行方を見届けることもできず、ままよとその場を振り向かずに立ち去った。数日は、そのようなことですぎた。
ある朝、日課にでかけた。すると、私のキョウダイ筋に当たる男(私をこの島につれてきた男の嫁ぎ先の一族の男なので、私の擬制的なキョウダイということになる)が、私がいつもしゃがんでいる場所近くで、こっち(島の方)をむいてしゃがんでいる。そうか、「しゃがむ向き」も文化だ!と心打たれたが、しかし、ぎこちなく、手を上げて挨拶をして通り過ぎた。その翌朝からはそのキョウダイに従ってしゃがむ向きをかえた。
しばらくたって、腹を壊した。いつものような裏海岸では間に合うはずもなく、家の近くはさすがにはばかられ、海に飛び込んで思いを果たした。すると、サカナがしきりに身体の周りをはねた。思い当たった。私だけでなく島の人々は夕方になると思い思いに感覚を開けて海につかって身体を拭い、ふんどしや腰布を洗っている。わたしも、夕方、海につかっていたのだが、そのおり、私だけでなく、海の中の人々の背中で魚がはねた。海の中にしゃがんでいると、魚が寄ってきて、時には背中を突っついてくるのを覚えていた。
わたしは、完全水洗トイレを発見した!と思った。その翌日から、習慣をかえて、朝ではなく夕方、身体を洗うときに海の中で排便することにした。便はたいがい水に浮いてくるが、それよりも前に大きなサカナが食べてしまう。水面に浮くことはない早業だ。当時は日本ではまだ、ウォシュレットはなかったと記憶するが、完璧だった。実に清潔な肛門を維持することが、以來できることになった。

別の経験もある。それは、そのミクロネシアのサンゴ礁の小島のあと6−7年経ってからのこと、こんどは、北部オーストラリア・アーネムランドのアボリジニの村での経験だった。その村は、ユーカリの林の中の広場にあった。定住人口は20人ばかりだったが、そこに、「明けの明星のまつり」の撮影をするために、付近のアボリジニたちをあつめ、日本人の撮影隊などをあわせて人口は倍に膨れ上がった。広場に2箇所トイレがあったけれど、「ぼっとんトイレ」で匂いとハエがとんでもない。村の住人も含めてみな敬遠気味であった。結果として、各々村の周辺のユーカリの林の中に各々の場所を求めて散っていくことになる。しばらくすると、用を足す際に誰かの痕跡を目にすることが多くなった。すると、更に先に足を伸ばすことになる。次第にハエの数も増えてきたように思えた。
アボリジニの人々はもともと狩猟採集民、せいぜい20人程度で、定住生活はせず移動がちであった。また、かれらは、しばしばユーカリの林の中に火を入れる。かれらは、火を入れることを英語でクレンジングと表現してみせる。まさに、清潔にするのだ。白人社会との接触によって、定住が余儀なくされた。白人はその見返りというわけではないが、簡易な家屋とトイレと水道を用意した。定住しろということだ。ところが、定住すると火は厄介者になってしまう。定住のための施設は動かせない。もともと移動がちの彼らの持ち物は最小限でしかないので、火はおそれるものではないのだ。

ようやく、本書に戻る。わたしは、著者の意見に全く賛成だ。人間を問わず、すべての生命は物質循環の中にあり、そこからひとり離脱するのはいかがか、ということ。だから、ウンコをノグソで自然の物質循環の輪の中にもどすのだと。賛成だ。しかし、それは、人口が少なく定住せず暮らしていれば可能であったということだ。江戸時代の人口は4000万未満、現在の3分の1、最大人口の江戸でも人口は100万に過ぎなかった。東京はその10倍以上、どうかんがえても、ノグソを可能にする空間がない。とすれば、下水道処理場の施設を物質循環にみあったものに変えていくことのほうが理にかなっているだろう。

もちろん、著者が、日本人口すべてがノグソをするということを求めているわけではないだろう。人間も物質循環の中にあることを知れ!ということなのだろうと思う。だから、本書ぐらいの刺激が必要だと言うことも理解できる。しかし、無理と思わせてしまうのも、惜しいような気がする。そのためには、どのように伝えればよいのだろう。

ウンコの物質循環からの隔離も人間中心主義的で如何かではあるが、もうひとつ、忘れてはいけないものがあると思う。それは、人間の遺体のことだ。すべての生命は全てやがては命をおえる。森や林の命たちは、その中で自然に帰っていく。本書でもそのことが触れられている。とすれば、人間だけが火葬されて灰になってしまい、昨今のように、散骨して自然に撒き散らされるならばまだしもだが、物質循環から隔離されてしまう。これはこれで、いいのだろうかと思ってしまう。
じつは、父方の祖母の実家は土葬が認められている地域だった。40年ほど前に、その土葬の埋め墓にお参りしたことがある。そのとき、墓にも年齢があるということを知った。新仏が埋められたとき、土饅頭ができてその上に木製の卒塔婆が建てられる。時間が立つと、土中の遺体が分解されて次第に土饅頭は低くなり、卒塔婆は朽ちていく。数十年たつと平坦な場所になる。その頃になって、次の新仏が入る埋め墓がそっくり同じ場所ではなく少し位置をずらして掘られるのだそうだ。

ウンコもさりながら、遺体の物質循環への再参加はどうだろう。本書を読みながら、思ったのだが、これとてもノグソと同じく、人口が多い現在どうかと思うが、しかし、日々のノグソよりも、回数として解決できそうな気がするのだが、どうだろう。

正月なのに!なんて、そしられそうな気がするが、どうせは思い立ったことだから、書いておこうか。




2021-01-02 17:25:14 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ニッポン巡礼(集英社新書)』

 アレックス・カー、2020、『ニッポン巡礼(集英社新書)』、集英社

本書を手にとってみたら、取り上げられているところに行ったことがあるとしても、紹介されている場所には行ったことがないなど、知らないこととところばかりだっった。今どきは便利なので、Google Mapsをつかって、どこなんだろうと探しながら読んでいった。

しかし、本書の最後の「三浦半島」の章を読んでいるうちにようやく著者の言わんとするところが見えてきたように思う。たとえば、江戸時代の松尾芭蕉の『奥の細道』のように、たとえ、読んで行ったみたいと思ったところで、当時の事情からすると誰でも行くことができない場所を芭蕉は旅をしていた。一般の人々の読み方の第一としては、行ってみたくなるような記述を見出したとしても、行くことはできない場所と認識し、記述されていることで十分堪能するという楽しみというある種の禁欲があっただろう。紀行文、紀行文学というのは、まさにそうしたジャンルとして生み出されてきたものだ。
もっとも、同じような時代の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、もうすこし、ハードルが低かったかもしれない。というのも、伊勢詣は、当時であったとしても、庶民の旅として可能性がゼロではなかったから。だから、十返舎一九もそのことを意識して、「やじさんきたさん」には名物の案内もさせている。

翻って現在、Google Mapsで好奇心を掻き立てられ、ネットを類って情報を仕入れさえすれば、条件さえ許せば、すぐ明日にでも出かけることができる。宿の予約だって簡単だろう。もっとも、コロナ禍にあっては、ハードルが少し高くなってはいるが、それでも、江戸時代の比ではないことはあきらかだ。
著者は、一般的なツーリズムとは異なっているとはいえ、ツーリズムのこれまで関わってきた。ただし、一般的なツーリズムが目を向けることのなかったものに、目を向けるという形で。その著者が「巡礼」とタイトルに付けたのは、まさに、そのオルタナティブ・ツーリズムを意識したものではある。

しかし、同時に本書に散見されるのは、悪く言えば「上から目線」な記述であり、一般のものは来るなよ!、おれたち目利きの者たちだけの特権だからという響きが感じられる。本書のようなことを書いてオーバーツーリズムになるのは嫌だけれど、ということばもまた、散見される。それにもかかわらず、本書の帯の惹句には「日本には、こんなに美しい場所がある。観光地ではない、知る人ぞ知る隠れ里へ・・・」と言葉が書かれている。

じゃあ、本書を書いた意図はなにか、よくわからなくなってくる。至って矛盾に満ちた行為に見えてならないのだが。


2021-01-01 23:19:04 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


デパおせち(たん熊北店+トゥーランドット 臥龍居というもの)、自家製ローストビーフ

何か気が抜けた新年のおせち、デパおせちはよかったが、いつもの菜鶏雑煮のはずが、鶏をいれわすれた。それはそれでおすましとしては美味しかったけれど。

15時ごろ、腹ごなしに近所の神社を約6キロほどを1時間ほど出回る。晴明神社、上野天満宮(大行列だったので素通り)、山神社、蝮ケ池八幡。

デパおせち(たん熊北店+トゥーランドット 臥龍居というもの)
自家製ローストビーフ(昨年から家内が作っているもの。だし昆布で巻いて置くという和風のもの)

2021-01-01 21:24:43 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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