物語は、クララの一人称小説で、すべて、彼女の視点で描かれる。クララはAF(Artificial Friend、省略形のAF)、雑貨屋で展示されていたクララは太陽光を動力とする旧世代のAFで、店のショウウィンドウから、太陽の陽を浴びて、外の世界を観察するのが楽しみだった。それだけでなく、見たことを観察し、洞察をくわえて自己の学習につなげていくことを得意としていいる。ある日、ジョージーという身体の弱い少女がクララに目を止め、からなず迎えに来ると言ってくれる。クララは待ち続ける。
ジョージーと暮らすようになったクララ、そして、彼女を大勢ではないが沢山の人々、母親、別れて暮らす父親、家政婦、近所に住むリック、その母親、などなど。ジョージーの母親は、サリーというジョージーの姉を亡くしていて、ジョージーがもし亡くなったら、クララに身代わり(「ジョージーを継続する」)させようと考えている。クララは学習してジョージーを継続する準備を整えるが、同時に、ジョージーは彼女自身で世界に立つのではなく、彼女を取り巻く様々な人にとっての存在でもあることにも気がつく。クララは「お日さま」にお願いして、エネルギーをジョージーに与えてもらう。まるで、AIが信仰心を持つようではあるが。ジョージーは回復して、大学に進学して家を離れる。クララはお払い箱になってしまう。
寓意に満ちた未来小説なのだが、AIが人間を超えるというカーツワイルのシンギュラリティに対するある種の批判でもあるようだ。一人の存在は、一人の頭脳の中に存在するのではなく、一人を取りますすべての存在にとっての存在であって、一部を切り取ってすべてを構成することはできないのではないか、AIの限界を語っているように見えた。