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抗い、もがきは来る日のために

2007年08月17日 | 雑記帳
 先週金曜日に放送されたNHK『プレミアム10』は、尾崎豊の特集であった。
 どうして今なのか、あまりよくわからないが、出演者欄に脳科学者茂木健一郎の名前がある。尾崎の歌を脳科学から見た分析でもするのかしらん、と興味を持ってチャンネルを合わせた。

 内容は、85年8月に行われた大阪球場でのコンサート、リハーサルから本番の様子が流され、時折茂木の言葉が挿入されるという構成である。
 尾崎のデビュー2年目、おそらく尾崎が最も尾崎らしかった時期とも言えるはずである。
 画面のクローズアップ率はきわめて高い。歌詞を声を、メロディをリズムを、その表情とともに見せることは、尾崎を被写体として取り上げる場合常に多い手法だと思う。世代の違う私にもその「抗い」「もがき」が伝わってくる。

 尾崎の相当のファンらしい同世代の茂木の言葉は、一言で言えば「絶賛」である。物足りない?ほどの誉め言葉が続いた。
 さて、茂木が番組でも語っていたが、最近の学生は尾崎の曲などを聞いても非常に醒めた感じであるという。
 そのことはもう結構前から言われていた気がする。
 尾崎がもてはやされた頃の若者のほとんどが、その曲に全て共感したとは言わないが、惹きつけられていたことも確かだと思う。しかし、今の十代では稀なのだろう。

 こうした変化をどうとらえるか…かつて河出書房新社が発刊した『文藝別冊』に尾崎豊特集があったことを思い出した。
 尾崎を育てたプロデューサー須藤晃が、作家重松清と対談している。
重松が、浜崎あゆみの歌詞との比較を話題にして分析を試み、それを受けた須藤がこんなことを言っている。

「自分が悪いのではない」という時代から、もしかして何かが変わったとしたら、ある種の諦観とか諦念みたいなものが芽生えてしまったことではないかと思うんです。「言ったってしようがないんだから」と諦めて、その視線の矛先は今度は自分に向くしかない。
 
 ちょうど「自分探し」という言葉が出始めた時期とも重なるように思う。
 しかしそれは非常に底の浅い動きに過ぎなかった。自分が何者かということにたどりつくまでの様々な障害や葛藤には目を向けず、自分の好きなこと、合いそうなことを物色して、それが個性的だのオンリーワンだのという見せかけの言葉をまとっていることだと勘違いしているような…。

 最近は「そのままでいいんだよ」「がんばらなくていいんだよ」という歌声が高くなっている気がするが、それは、精一杯抗ったりもがいたりしている姿を見守り続け、その果てに掛ける言葉であろう。何もしない時分からそんなことを言われ続けて、どんな未来が待っているというのか。
 反社会的と言われてもエネルギーを出してきた人間は、自らのエンジンを奮い立たせていく術を知っているはずだ。

 歌の持つ力は大きい。
 確実に時代を映しているともいえる。
 85年の尾崎の歌は、「もっと耳を澄ましてしっかり歌を聴け」と言っているような気がしてきた。