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見えにくくないか「授業で勝負」

2007年08月06日 | 雑記帳
 90年の刊行という結構古い『授業研究用語辞典』(教育出版)をぱらぱらとめくっていたら、ある1頁が目についた

 「授業で勝負する」
 
 懐かしいような響きも感じたが、確か一昨年の中央教育審議会答申の文言にもあったことを思い出した。
 
 専門家としての確かな力量という章に、「教師は授業で勝負する」という言葉がある。それを受けて私の在住する県でも管轄する教育事務所が「授業で勝負!」をここ数年のキーワードにしているはずだ。

 今、「授業で勝負」の意味を問われたとき、それは授業という場で教師の最大限の力を発揮して学力向上に努めることといった返答になろうか。しかし、改めてこう書いてみると何か薄っぺらな気がしてくることも確かだ。
 
 この辞典に項目立てされている意味は、また別のところにあるようだ。冒頭部分に次のようなことが書かれている。

 その内実を持たない教師によってまだ「あたかも自分が考え出した」かのように使われるなど、言葉がひとり歩きして「あまりにも簡単に流行語的に使われすぎている」と嘆いている(野村 新)

 野村によって記されたこの解説に、かぎかっこで引用されている言葉の主は斎藤喜博である。

 「授業で勝負する」は、斎藤喜博の島小教育で最初に使われた表現だという。
 斎藤のこの表現は三つに大別できると解説がある。

 一つは、授業こそが学校の中核的活動であるという点。他の管理・運営面への目の向け方に対する意味づけである。
 二つ目は、「授業は子どもとの対決」であるという、授業観としての勝負論である。
 そして、政治・社会と教育の関係という視点がある。人間変革の実践手段として教師には授業があるという見方である。

 政治運動の勢いがあった当時、そう主張した斎藤に対しては当然批判の目も向けられた。それでも、自らの主張にそって邁進した斎藤の足跡は、その後の学校教育に少なからぬ影響を及ぼしたろう。

 しかし、今改めて叫ばれる「授業で勝負する」は、その三つの意味のどれにも当てはまらないような気がしているのは自分だけだろうか。
 とにかく「教師の力量向上」のためのスローガンとして、授業に必要な諸々の力を身につけようといった意味合いであり、実際の授業の場における緊張感に反映されていない傾向がある。
 また、増え続ける授業以外の要素は全くそのままであり、専念が難しくなる環境の中で言葉だけが美化されているように思う。

 「授業で勝負する」の今日的な視点を確かめる必要を感じている。