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読みにくい名前の願いを受けとめ

2007年08月13日 | 読書
 先週、担当者から言いつけられて、書写作品展示会の賞状の名前書きをした。一年生から六年生まで全員(といっても64名なのだが)の賞と氏名を筆ペンで書いた。
 もちろん全員の顔と名前が一致するし、書き間違いなく進められた。一人ひとりの名前にじっくり向き合うと、ああ「よい名前だなあ」という思いが浮かぶこともある。

 さて、現在大学院に通っている知人から『読みにくい名前はなぜ増えたか』(吉川弘文館)という本を頂いた。講義を受けている佐藤稔秋田大学教授が著した新刊本ということであった。
 本の題名の思いは、学校現場にいる者なら誰しも感ずるのではなかろうか。例えば本校一年生女子はわずか3名であるが、その名前を全て正確に読むことはできる人はまずいないだろう。いずれも知っている漢字ではあるが、その読みは単なる音訓で処理できないからだ。
 こうした現状に対して、佐藤氏は次のような問題意識を持って、この本を書き上げた。

 この領域に無関心でいることは、現代の漢字使用に大きな領分を占めている表記と音訓の関係の新たな展開に目をふさぐことになる。

 国語学、言語学の立場から、学術的な考証や時代的な背景など取り混ぜて明快な結論を導きだし、問題を提起しているように思えた。私なりに表題に対して得た結論は以下の通りである。

 一つは「名づけ」という行為が、歴史的に特殊な性格を持っていたということ。
 次に、現在の「人名漢字」における音訓制限の不備。
 そして、何より今「名づけ」を担う親の世代の意識である。佐藤氏は次のように記している。

 自分の居場所を模索し、価値観に「個性的」というマークを刻印せずにはおれない新興勢力の層

 その層を育ててきた社会、教育の責任という話になると大きくなってしまうが、少なくてもこの本に紹介されていた「よい名前とは」といった教えは伝わらず、一般的にならなかったことは象徴的だ。

 もう親として名づけをする世代ではない私自身も初めて知り、考えさせられた。
 昭和26年国語学者の吉田澄夫氏は『名前とその文字』で、良い名前の条件として次の三つを挙げたという。

 ①よい意味を持っていること
 ②やさしい文字を選ぶこと
 ③やさしい読み方を持っていること

 こうした知識はもっと大切にされ、アナウンスされても良かったのではないか。結局①だけが特化された形(それも独りよがり的ではあるが)になっているのが現状だ。②、③にかかわる社会意識、他者意識が「名前の機能とは何か」という点と深く関わりあってくることは事実だし、その点が置き去りにされているといってよい。

 そしてそれらの意識の欠如は、命名だけでなく私たちの暮らし全般に大きく影を落としていることは、もう認めざるをえない事実である。その現実をしっかり把握しながらの仕事が続くのである。

 だから…目の前の一人ひとりの子どもの名前をけして「でたらめ名前」と受け取ってはいけないし、その名前の「よい意味」を名づけた人ともに探っていくことは私たちの務めなのだ、そんなことを考えさせられた。