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「思いつき」で学習用語は指導できない

2007年08月21日 | 雑記帳
 「思いつきでいい。やたらに教え込んでいい。」

 青森のサークルふゞき主催の「鍛える国語教室」に今年も参加した。
 最後の感想交流で、私が「『学習用語』をどの程度、どの段階で教えればよいのか、少し迷いがある」というようなことを述べたら、野口芳宏先生がそれに対して上のような言葉を仰った。

 ちょっと誤解を招きそうな言葉ではないか。
 額面どおりに受け取れば、それは「学習用語」とことさらに呼んでいいものかどうか疑問が残ってくる。単なる語彙とどう違うのか、ここは明示するべきではないか…。
 他の方々より少しは野口先生の著書に触れているはずと自負している私はその意はわかりかけているが、ここは再質問して…とタイミングを窺った。しかし会の流れとしては難しい気がしたので飲み込んだ。

 まず、野口先生の仰る「学習用語」とは「言語知識」と読みかえてもいいはずだ。それを授業場面で子ども側からそう呼ぶということである。何度となく先生も書かれている。
 ただ、それだけではどうも曖昧だ。
 言語学者の金田一秀穂氏が書かれている文章に「洗練言語」という言葉がある。日常の暮らしで私たちが使用する「生活言語」と対比される。ふだんの生活で身につけていく言葉と違い、学校の場で教えられるべき言葉という意味である。野口先生の講義で言えば「抽象的な的確な言葉」と同様と言えよう。
 したがって、学習用語は「国語科における洗練言語」というとらえもできるのではないか。取り立てて取り上げなければ、あまり目にすることのない言語とまずおさえることが肝心である。

 ではなぜ「思いつき、やたらに」なのか。これは少し正確に述べる必要がある。
『言語技術教育14集』(明治図書)に、野口先生の次の言葉がある。

 当分の間は「学習用語」は「思いつき」「気づき」で拾い上げ、洗い出していき、たくさんの「用語」が出そろってから、それらの分類や比較によって取捨、選択をたし、系統化を図っていけばいい

 冒頭の言葉はつまりそういう意味なのである。
 しかし、受身的な教員根性?を持つ者にとっては「それにしても」という思いは残る。私の感想もそこから出ているし、現に野口先生も書いておられるのだ。

 これらの「学習用語」を「いつ」「どの学年に」「どの程度」教えるのかということを、改めて考えてみなければならない

 ただ、そこに立ち止まっていては何も進まない。進みつつ修正を加え…という姿勢が大切なのだろう。参加者の中に野口先生の言葉を間違って解釈する人はいないと思うが、その著書から学習用語の指導ポイントの第一として(第二、第三もある)挙げていることは次の点である。自分自身のために書きとめておきたい。
 この段階は思いつきではやれない。

 「まず、いっぱい列挙する」「次に、取捨する」「最後に配列する」という手順を踏むこと