すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

時代を感知してきた人、逝く

2007年08月02日 | 読書
 作詞家阿久悠が逝った。

 ヒットメーカーとして揺るぎない地位にありながら、独特の雰囲気があった。
 高校野球シーズンにスポーツ新聞に連載される「甲子園の詩」は実に読ませる文章だった。
 歌詞もそうだが、「ドラマ」づくりの天才とも言うべき人ではなかったか。

 阿久が2003年に出した新書がある。

『日記力~「日記」を書く生活のすすめ』(講談社+α新書)

 当時も興味深く読んだが、改めて書棚からおろしめくってみて驚いたことがある。
 この本は「語り下ろし」なのである。
 内容はかなり異なるが、先月記した「むのたけじ」と同じ発想であったことが興味深い。
 語りでなければ伝えられないもの、語りの持つ力を、いくらかでも再現できればという願いがあることはもちろんだが、そこに表現者としての強さを感じるのは私だけでないだろう。

 「1ページに限定して、その日の出来事や言葉等と自分の考え、行動を同格に書く」という独特のスタイルで日記を書き続けた阿久は、情報の価値を見極めることにこだわりを持ち続けた。一言で片付けるのは難しいが、その核は自身の生い立ちを通して身につけた「俯瞰力」であり「敏感なアンテナ」であった。
 「情報の洪水を泳ぐ」ことに対して意識的な阿久の結論は、次の文章に集約されると思う。

僕らは今、そして、これからどう生きていくかも大切だが、どのような時代に生まれ、どのような時代の中を生き、誰から何を得、誰に何を渡し、存在してきたかということを、もっと確認したほうがいいと思う。大ざっぱな歴史学や多数決の社会学でない、時代を感知する個人の感覚をもっと大切に考えるべきじゃないでしょうか。
 
 そのための武器として、阿久は日記を書いた。二十三年書き続けた。(おそらく亡くなる間際まで書いたのではないか)
 続けるために様々な工夫をし、何より誠実に続けてきたことが本の中に淡々と書かれている。
 表現者としての資質は、何より誠実さであることを確認させられるような文章である。

 2003年6月4日、新書のあとがきが記された。こんな文章も入っていた。

ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜は、今日も無安打であった。真面目であることは自分を金縛りにしてしまうが、不真面目さゆえの気楽さよりは、はるかに未来がある。力と心を信じなさい。
 
 野球を愛し、言葉を愛した阿久の言葉は、まさにその日を生きているし、明日に確かにつながっているような気がした。合掌。