すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

世界の表面で叫ぶ者の視線を疑え

2007年08月03日 | 読書
 赤瀬川原平という名で思い浮かぶのは、「路上観察」と「老人力」の二つぐらいだが、その中身について詳しく知っているわけではない。実際、あまり関心もなかったが、新書のコーナーで本の帯に惹かれて、休み中の軽読書のつもりで購入した。

 『日本男児』(文春新書)

 『オール読物』という文芸誌?の連載エッセイがまとめられていたものだった。
 「来た球を打つ、というだけの構えで書いた」とあとがきに記してあるとおり、肩の力の抜けた文章が中心だが、時折びくっとする言葉に出会い、ううんと深く考えさせられたりした。
 さすが齢七十を越える「老人力」のなせる技か。

 「世界の表面で愛を叫ぶ」という章がある。
 もちろん、数年前に流行った小説の題名をパロディ化したものだが、実に的を射ている言葉だ。
 ある会社員が毎日持ってくる「愛妻弁当」が恥ずかしく、コンビニの包装をして持ってくるという話を例に「愛そのものが恥ずかしいという、そういう世の中になっている」のではないかとし、それに比して表向きのところでは、愛が大声で叫ばれているという。
 確かにその通り、コマーシャルしかりキャンペーンしかり、スローガンしかり、世界の表面は愛で満ち満ちている。様々な会議などの場でも、実生活で愛の姿が見えない裏返しのように声高に叫ばれている。

 これは、別に愛だけではなく、この本で取り上げられている「自由」や「ゆとり教育」なども全く同じ状態ではないか。
 自由は一見声高に叫ぶ必要がないほど表面的に満ち溢れているが、実は自我の弱い日本人にとって、「自由とは結局他人の真似をすることになってしまう」という筆者の指摘は、深く頷ける。
 「ゆとり教育」が叫ばれたけれども、「ゆとり」は気持ちや心といった中心に姿を見せず、時間的な量的なそうした表面上の変更に過ぎなかったという状況は、現場にいればまさにその通りと言えることだ。

 表面で叫ぶことは悪いことではないけれど、中心で叫ぼうとする者にとってはその視線の先がどこにあるのかを見据えないと振り回されるだけだよ…と、日本男児の赤瀬川は言っている気がする。
 腹巻を締めなおせと言っている気がする。(ない人は、しっかり探すんだよ)
 あとがきは、こんなふうに締めくくられていた。

 日本男児は、たぶん腹巻一つの素裸なのだと思う。ウロコは目から落ちて欲しいが、腹巻はしっかり腹に巻いていた方がいい。