すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

お灸をすえるという教育法

2007年08月27日 | 読書
 幼い頃に親に叩かれた経験はあっても、実際に灸をすえられたということはない。
 お灸そのものをあまり見かける機会がなかったと言ってもいい。
 「灸をすえる」は「痛い目にあわせる」という意味で使われることはもちろん知っていたが、本当にもぐさを使った灸が使われる場面があったのかどうか、少し疑っていた。

 ところが、野口芳宏先生の著した『縦の教育、横の教育』(モラロジー研究所)を読んでいたら、こんなことが書かれてあった。

 そのころ私の近所では、子どもが言うことを聞かない時には「お灸」をすえるという教育法が、極めて常識的な子育ての知恵でした。

 先生も実際「三回程度」すえられた経験を持つという。
 「子どもにはある程度の体罰が必要である」という先生の考えは、こうした身を持って体験しことに裏打ちされているのだろう。
 その文章を読んでいたら「灸をすえる」が単純に叩くなどと違う特徴?があることに気づいた。

 一つは、二人がかりで行われること。
 もう一つは、痛み(熱さ)が続くこと。

 もぐさが飛ばないように父母二人に押さえつけられたと書いてある。これはもちろん一瞬の熱さだけでなく、一定時間それを持続させるために行うわけである。

 つまり両親が協力して、良い子どもにするためにする懲らしめです。  

 私自身は体罰そのものにはかなり慎重な考えだが、懲罰と大きくとらえたとき、この「お灸をすえる」方法の特徴は、かなり有効に働く場合があるのではないかとふと考えた。

 複数で持続的に行う懲罰 (念のため、虐待や折檻の意味ではありませんよ)

 子どもに対して懲罰という方法を用いるとき、用いる側に相談・合意する相手がいて一定の時間を保つように行うことは、意図を強く伝えることができるのではないか。すえた後の見取りも的確にできるのではないか…そんなことを考えた。
 
 「お灸をすえる」という言葉のなかに、人の怖がるものを、手順を踏み、用意周到に行っていくというイメージを見る。
 これは現代にも通ずる教育原則だろう。