すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

結果的ポエムは自らの妄想

2009年12月03日 | 読書
 行きつけの書店から、毎月出版社からのPR誌を数冊いただく。その中でも『波』(新潮社)と『ちくま』は特に愛読している。

 『ちくま』の楽しみはなんといっても、穂村弘の「絶叫委員会」という連載である。これがなんと最終回と銘うってある。
 ああ残念。45回なので約4年か…などと思いながら本文に目を通すと、最終回のまとめのような文章が。

 改めて振り返ると『絶叫委員会』の連載では、このような「偶然性による結果的ポエム」について主に語ってきたかもしれない。
 
 「結果的ポエム」んんーっ、この世の中に結果的ポエムはどれほどあるのだろうか、と考える。これはそういう目の付け方をしているかどうかで決まることと言ってもよさそうだ。
 例えば今回は友人が「浦和」を「うわわ」と叫んだことから始めている。いわばこうした「言いまつがい」的なことや、電車中の男女が交わす奇妙な会話、様々な場所にある宣伝、広告などの文章…こういう点にポエジーを感じて連載を続けてきたわけだ。

 ファンであったのは、その感性と妙に近いと感じたからに他ならないが、「結果的」というのなら、ポエジーを感じる原因は何かとも考えたくなる。
 語と語の意外な組み合わせ、または語と状況の意外な組み合わせからいかに想像力を広げられるかであろう。その「妄想」を面白がるかそうでないか。その「妄想」が別に転移したり、あらぬ方向へ自分を導いたりするわけだ。

 例えば「絶叫委員会」というネーミングそのものもあてはまる。これは偶然性ではないが、それから様々な妄想も広がっていく。
 みんなで絶叫し合いながら議論するのだろうか。
 委員会だから結論が出たら、それぞれの場所、例えば夕やけの海、都会のビル屋上、三千メートル級の山の頂上などへ行き、そこから叫ぶのだろうか…絶叫が許されるのなら、「号泣」だって、「怒号」だってあるだろう。
 「号泣委員会」、「怒号クラブ」…どういう活動をするのか。
 反対に「無言クラブ」、「寡黙委員会」をつくったらどうなるか。

 お笑いと紙一重のような気もするが、そこを想像力逞しく働かせられる要素があるのが、結果的ポエムなのか。