すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

新しさを掘り進む

2009年12月16日 | 読書
 『優しい子よ』(大崎善生著 ポプラ文庫)

 『傘の自由化は可能か』というエッセイ集の中に書かれた箇所を読んだだけでも心動かされたある少年の話が、私小説という形で収められたのがこの本である。
 さらに、著者と交流のあった名プロデューサーの病、死、そしてその後の取材を巡る出来事と心象が、もう一つの内容といっていい。

 この二つに、いや二人に共通したものがあるとすれば、それは高貴な魂の存在とでも言うべきか。ひたすらに受け入れ、与え続ける姿に周囲の人間は心打たれる。ある時は悩み、叫び、迷惑をかける存在であっても、どこまでもその魂は純真であり、周囲の者をひきつける強い磁場があるように思えてくる。

 大崎はそこに惹かれる感情を隠そうともせず、かといって過剰に表現するでもなく、淡々と自分と周囲を見つめながら筆を進めているが、それらの対象が抱えている思いの強さゆえに、心揺さぶられる場面が多い。

 最後に収められた「誕生」は、妻の妊娠、出産を巡る内容であるが、前述の二つと切り離せない面を感ずる。出会いと別れを繰り返してできた観念のようなものをまるで、誕生してくる者に刷り込んでいくかのような表現だ(もちろんそんな意識はないだろうが)。

 感情や感性や、概念や観念を、文字にあらわして見えるようにする、そのための空間が必要で、それを広げていくことを、「今の自分にとって、小説を書くということ」と書く大崎が、「文庫版のための後書き」でこんなことを記している。

 新しい言葉、新しい文体、新しいレトリック。それを手にするには新しい経験と新しい感動を繰り返していくしかない。新しい物や街を見ることで新しい形容が生まれる。 

 表面的な新しさ、そこを掘り進んでいけば何か真の新しいものと出合えるのではないかと読む。そのために長い時間をかけて磨いておくのは魂という鍬でしかない…大崎を読んでいるとそんなイメージが浮かぶ。