発刊から20年、もはや古典と言っていい?名著である。理解力の乏しさ、根気の無さから逃げ出していたが、せめてこのぐらいは読み通したいと思った。今年の最後の課題としよう。
「はじめに」に目を通す。やはり難しい。
現代とは、要するに脳の時代である。
この比喩的表現が結論と言えるのだろうが、それがどう噛み砕かれているのか、すっきり入ってこない。
現代人は、いわば脳の中に住む。
これは、「脳の産物の中に住む」ということだ。つまり産物としての建物、街という直接的なハードの面、文化や制度、言語といったソフトの面の両面を指している。これはわかる。ではこれはどうだ。
脳の中に閉じ込められたと言っていい。
そう、誰に閉じ込められたか。それは自分か、他人か。ここは読み進めなければならない。
「脳の中に住む」ということは「御伽噺」の世界に住むことだとあるが、御伽噺は現実と相反するという意味だ。では、現実とは何なのか、それが大きな問題となる。
大昔、それは「自然」だった。しかし今は多くの人工物、情報などが現実である。つまり「脳の産物」である。脳の中にある御伽噺はもはや現実そのものなのだ。脳の中も外も現実だらけ。作り出しているのはと問えば…。
自己の生活を左右できない自己の脳、あるいは自己の生活を左右する他人の脳
かつて脳に住むことは、現実たる自然からの解放であったが、今は現実と化した自己と他人の脳によって、閉じ込められているのだ。
なぜこれが問題なのか、といえば、ヒトは動物としてそもそも自然だったから、と言えようか。
そこからわれわれが解放されるか否か、それは私の知ったことではない。
えっ、最初から突き放しか。
それでは何のためにこの本を書いた。これで終わりでもいいだろう。いかにもへそ曲がりだ。偏屈だ。自然でない。
だから?「はじめに」がそんなふうに書かれるとは、なんて素敵なことだろう。
挑発的なので読んでやる!とわずか2ページで疲れてはいるのだけれど。
「はじめに」に目を通す。やはり難しい。
現代とは、要するに脳の時代である。
この比喩的表現が結論と言えるのだろうが、それがどう噛み砕かれているのか、すっきり入ってこない。
現代人は、いわば脳の中に住む。
これは、「脳の産物の中に住む」ということだ。つまり産物としての建物、街という直接的なハードの面、文化や制度、言語といったソフトの面の両面を指している。これはわかる。ではこれはどうだ。
脳の中に閉じ込められたと言っていい。
そう、誰に閉じ込められたか。それは自分か、他人か。ここは読み進めなければならない。
「脳の中に住む」ということは「御伽噺」の世界に住むことだとあるが、御伽噺は現実と相反するという意味だ。では、現実とは何なのか、それが大きな問題となる。
大昔、それは「自然」だった。しかし今は多くの人工物、情報などが現実である。つまり「脳の産物」である。脳の中にある御伽噺はもはや現実そのものなのだ。脳の中も外も現実だらけ。作り出しているのはと問えば…。
自己の生活を左右できない自己の脳、あるいは自己の生活を左右する他人の脳
かつて脳に住むことは、現実たる自然からの解放であったが、今は現実と化した自己と他人の脳によって、閉じ込められているのだ。
なぜこれが問題なのか、といえば、ヒトは動物としてそもそも自然だったから、と言えようか。
そこからわれわれが解放されるか否か、それは私の知ったことではない。
えっ、最初から突き放しか。
それでは何のためにこの本を書いた。これで終わりでもいいだろう。いかにもへそ曲がりだ。偏屈だ。自然でない。
だから?「はじめに」がそんなふうに書かれるとは、なんて素敵なことだろう。
挑発的なので読んでやる!とわずか2ページで疲れてはいるのだけれど。