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『唯脳論』も読め…

2009年12月09日 | 読書
 発刊から20年、もはや古典と言っていい?名著である。理解力の乏しさ、根気の無さから逃げ出していたが、せめてこのぐらいは読み通したいと思った。今年の最後の課題としよう。

 「はじめに」に目を通す。やはり難しい。

 現代とは、要するに脳の時代である。
 
 この比喩的表現が結論と言えるのだろうが、それがどう噛み砕かれているのか、すっきり入ってこない。

 現代人は、いわば脳の中に住む。

 これは、「脳の産物の中に住む」ということだ。つまり産物としての建物、街という直接的なハードの面、文化や制度、言語といったソフトの面の両面を指している。これはわかる。ではこれはどうだ。

 脳の中に閉じ込められたと言っていい。

 そう、誰に閉じ込められたか。それは自分か、他人か。ここは読み進めなければならない。
 「脳の中に住む」ということは「御伽噺」の世界に住むことだとあるが、御伽噺は現実と相反するという意味だ。では、現実とは何なのか、それが大きな問題となる。
 大昔、それは「自然」だった。しかし今は多くの人工物、情報などが現実である。つまり「脳の産物」である。脳の中にある御伽噺はもはや現実そのものなのだ。脳の中も外も現実だらけ。作り出しているのはと問えば…。
 
 自己の生活を左右できない自己の脳、あるいは自己の生活を左右する他人の脳
 
 かつて脳に住むことは、現実たる自然からの解放であったが、今は現実と化した自己と他人の脳によって、閉じ込められているのだ。
 なぜこれが問題なのか、といえば、ヒトは動物としてそもそも自然だったから、と言えようか。

 そこからわれわれが解放されるか否か、それは私の知ったことではない。
 
 えっ、最初から突き放しか。
 それでは何のためにこの本を書いた。これで終わりでもいいだろう。いかにもへそ曲がりだ。偏屈だ。自然でない。
 だから?「はじめに」がそんなふうに書かれるとは、なんて素敵なことだろう。
 挑発的なので読んでやる!とわずか2ページで疲れてはいるのだけれど。