すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その準備で充たされる身体

2009年12月22日 | 読書
 やっぱり上手だな、と思う。

 伊坂幸太郎『フィッシュストーリー』(新潮文庫)

 洒脱な会話とか気の利いた警句、緻密な構成などということばが伊坂作品を形容するコピーになっているがまさにその通り。今回も面白く読めた。
 4編の中編集?という分野らしいが、どれもそれなりの味がある。
 まあ、標題になっている「フィッシュストーリー」が印象深いことは確かだが、本文後の【参考文献】のところにあった、作者の書いた言葉に少し驚いた。というか、作家はこうなのだと改めて認識したように感じた。

 三谷龍二さんの作品を見たことで、長い時間と場所を漂う物語を作りたいと急に思い立ち、『フィッシュストーリー』ができあがりました。
 
 三谷龍二という名前は聞いたことがなかったので、ネットで調べる。
 なんと木工作家ではありませんか。

 木の造形作品を見て、そういうインスピレーションがわくということはちょっと一般人では届かないところなのだろう、と簡単に結論づけたくない気がする。

 そういう目で作品を見るから、音楽を聴くから、創作に結びつくのだろうと考えてみる。
 そういう目の正体は、背景、過去、意志、信念、希求…を感じとる心、反応する身体だ。

 全ての日常生活でそんな構えをしていることは不可能である。
 しかし出会いは突然やってくる。
 とすれば、その準備をしていることこそ、一番肝要なのではないか。

 こじつけと言われればそれまでだが、この小説の中でハイジャック犯をいとも簡単に倒してしまった瀬川という高校教師が印象深い。
 『フィッシュストーリー』の第二場面、何気ない最後の言葉がかなり格好いい。

 ハイジャック犯が計画を立てるずっと前から、瀬川さんの準備はできていたのだ。 

 瀬川の身体は、正義への準備で充たされていた。