すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

傘の自由化が語りかけること

2009年12月14日 | 読書
 愛読誌であったマガジンハウスの『ダカーポ』が廃刊?になってからどのくらい経つのだろう。
 真っ先に読むのが、大崎善生の日記風エッセイだった。そのユルイ日常の描き方がたまらなく自分にフィットしたなあと思い出せる。

 その当時書かれたと思われるエッセイが集められたのが、この本だった。

 『傘の自由化は可能か』(大崎善生著 角川文庫)

 様々な雑誌等に書かれたものが集められているようで題材が重なっているものもあるが、それなりに楽しく読めた。

 題名となっている「傘の自由化は可能か」は、大崎が学生時代にほとんどひきこもりのような生活をしていた時代に、寝床の中で繰り返し考えていたことと言う。
 自堕落で飲んだくれの日常のように見えながら、実はさなぎのような状態でそんなことを考えられることが、作家の作家たる所以かなあと思う。

 同世代である自分も似たような暮らしをしていて、何か考えていたことはあるのか思い出そうとしても、言葉として浮かんでこない。
 しいて「傘つながり」で挙げれば、陽水の「けれども問題は今日の雨 傘がない」だろうか。
 それも情けないことである。

 さて、この「傘の自由化は可能か」は大崎の初めての小説である『パイロットフィッシュ』の中に登場人物の会話として描かれている。
 傘の私有化を禁止し、様々な場所に傘を置いて自由に使いあうという発想なのだが、それは果たして可能かということで会話がかわされる場面だ。
 面白い設定である。傘の共有化によって便利なことは結構たくさんある。そういった社会実験?が行われても不思議ではない。

 そしてこのエッセイでは、ある市で行われた経緯が書かれてあり…。

 その結末はそれとして『パイロットフィッシュ』を書棚から出しめくってみたら、会話の中で大崎はある女性にこんなふうに語らせている。

 本当にそれがいいと思うんだったら、まず自分で一本でも自由化してみることよ。きっとそういう具体的なことが大切なのよ。 

 この、とてもまともな言葉が、とても大事に感じられる。

 言い訳として、なぜできないか考えるのではなく、次の手を考える下地を固めるという発想が必要だ。