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「脱線」するゆとり

2011年06月23日 | 読書
 昨日書いた98歳の国語教師の実践を読みながら、一字一行へのこだわり方は大きく二つの観点があるよう思う。
 一つは言葉の意味の分析や拡充、もう一つは体験と重ねて実感としてとらえること、と言ってもよいだろう。

 後者については、幾度となく考えてきた気がする。

 まず、「総合的な活動の時間」についての議論が盛んだった頃、千葉大の宇佐美寛先生が書かれた「読書⇔経験」のことが思い浮かぶ。学習とはかくあるべきと印象に残ったことだ。

 ある夏、算数の研修会に出たときに、筑波大付属小の細水先生が講演で話された言葉も納得だった。以前にも書いた気がする。

 2年生の先生は、子どもに「暑いから、窓をちょっと開けて」と頼んではいけない。
 「窓を30cmくらい開けて」と頼むべきだ。


 杉渕鐵良先生の最近の著書「子どもが授業に集中する魔法のワザ!」(学陽書房)には、こう書かれている。

 国語、算数とキッチリ分けずに、他の教科へリンクすることで、子どもは「生きた学び」が体感できる。


 これらの考えの共通性は言うまでもない。
 「つながる」「往復する」と、言葉にすれば簡単ではあるが、現実に小学校の授業はそうなっているだろうか…以前よりそうした学びの姿は衰えてきているのではないか、という気がする。

 原因は特定できるものではないが、学校教育上の施策として、小学校の教科教育が専門性という点を重視し始めた傾向も見逃せない。
 そのこと自体は悪くはないが、担任裁量の場を狭めていることは確かである。  

 横断的総合的な学びという点も強調はされてきたが、もちろん著名な研究校ではそんな例も多くあったのだが、実際の多くの現場に拡がったかというと、非常に心許ない。
 またそれを拡げる余裕を見いだせない現実が横たわっていることは周知であろう。

 懐古的で独善的とは思いつつ、小学校ではいい意味の「学級王国」であった方が、学びの総合性を志向する可能性が高くなるのではないかと感じる。
 均質的な手段のうえにのる学習は、一定量と質を確保できるが、個性や面白味に欠ける。それなりの工夫と努力をしている教師は多いが、法規的な枠というより学校体制の中に小さくまとまらざるを得ないのかもしれない。

 しかし今そんなことを言いだしても絵に描いた餅であることには違いない。
 どう打開していくかは、ぎりぎり2点、やはり一年間の計画づくりの中にあるし、一時間の授業の中にあるだろう。
 つまり計画づくりを、自分が好きなことを基盤に実践の「芯」として取り上げられるか(この際子どもは無視だ、と暴言)。
 そして一時間の中に、何度「脱線」を組み入れられるか、だ。

 98歳の教師はこんなことを言っている。

 大切なのは脱線する「ゆとり」なんです。ゆとりは目的ではない、結果です。