すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉でつなぎとめる自分

2011年06月12日 | 読書
 この地を離れていた学生時代を除けば、おそらく私は二軒の理容店しか利用していないと思う。
 一軒は親に連れていかれた近所の店で、中学以降はもう今行っている店にしか通っていない。
 いつの頃からか、「床屋」という場所はずいぶんと話の弾むものだなあと感じていた。それに世間一般の見方もそうであるような、映画やテレビでみる床屋でもそんな風景が映し出されていた。

 そもそも話好きな人がその職業に就くものなのか、「床屋は地域の社交場」という言い方があるようだし、話好きにならざるを得ないものなのか…。
 もちろん無口な理容師もいるにはいるだろうが、ただ黙々と鋏や髭剃りを動かされたとしたら、想像するとちょっと怖い気がする。

 なぜ、床屋では話が行き交うのか。
 それは理容師が話しかけ、相槌をうち、語り始めることがきっかけであり、職業に付随したサービスのようなものかなあなどと漠然と考えていたが…。

 『未見坂』(堀江敏幸 新潮文庫)

 久しぶりに堀江作品を読んだ。印象が奥深く残っている『雪沼とその周辺』と同じ連作短編集である。

 その一つに「方向指示」という理容店を舞台にした短編があり、作家の作家たる視点に、思わず感心してしまった。

 理容師や美容師には、二つの現実がある。

 と始まるその一節には、目の前のお客さんの頭と、鏡に写る風景を行き来している存在の小さな危うさが描かれる。

 確かに、自分が直接に働きかけている対象を見つめる目と、その対象が映し出される架空を見つめる目(そこには対象者がどう判断するかという複雑な重なりもあるような)が必要だし、結構大変な精神活動があるのかもしれない。
 
 むこうとこちら。そのあいだの自分をつなぎとめるのは、ときに、言葉だけになる。

 人一倍手先の器用さが求められる仕事だと思う。
 しかし細心の注意を払って刃物を扱いながら、二つの現実を行き来することには、緊張感を強いられるのだろう。
 いつも自分自身を励ます言葉が必要だ。
 そんなふうに思って聴けば、床屋のしゃべくり話も味わい深い。

 まあ実際疲れている時、妙に付き合わされれば「寝かせてくれよう」と言いたくなったりもするのだけれど。