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沈黙入門、挫折の気配

2011年06月24日 | 読書
 『沈黙入門』(小池龍之介 幻冬舎文庫)

 インパクトのある題名である。

 「沈黙」に憧れてきた気がする。少年期からどこかダジャレを連発して人の気を惹こうというようなタチだったので、無口な陰りのある同級生などを見て渋いと思ったり(さすがにシブイとは言わなかったが、そんな感じ)、「自分、不器用ですから」と呟く健さんにため息をついたりしてきた。

 無口や寡黙と同義ではないが、「沈黙」という言葉の響きがもつ思慮深さや冷静さは共通する傾向がある。
 人格の改善を目指そうとしたら、自分の到達点は沈黙かななどとも思ってしまう。

 それにしても、沈黙とは「入門」できるものなのか。そういう筋を持っているのか。なにしろ「話し方入門」とか「うけるスピーチ入門」とは正反対とも言えるわけだし。

 ただ黙ってりゃいい、何もしゃべらなきゃいいんだ、こんな簡単なことはない…いやいや、それはかなり難しいということは周知の通り。
 そして、それはなぜ難しいかといえば、この本に書かれている現実が世の中にあふれ、自分もその渦の中にいるからだ。例えば、こうしたこと。

 あふれる自分語り

 みんなコメンテーター気取り

 不幸自慢をする人


 この本には、そんな饒舌さはどんな心理に基づいているのか、そしてどんなふうにそれを薄め、沈黙を目指していくか、結構具体的な例が書かれている。
 ただ仏教的な用語の数が結構多いので、難解とは言えないが面倒なイメージも感じる。そこがまた著者の著者たる所以だとは思うのだが。

 欲望やイライラ、不安はなぜ膨張していくのか、それは紛れもなく言葉によって膨らんでいく。そのもっともな事実に目を向ければ、言葉を少なくしかもゆっくりしてみることの有効性は、なるほどと納得できる。
 しかしそれは習慣性であるから、かなり意識的にならないと難しい。しいていえば、一回一回の「禁欲」ということになってしまう。

 自分の欲望や不安を客観視して俯瞰してみることの効果については、よく言われることだ。
 この本では少し違っていて、そのあまり良くない心持ちを徹底的に見つめる、意識を集中させるという手法が奨められている。
 そのことによって本当にそう考えたり思ったりしているか真偽の見きわめができ、新たな発見、分析的な対処に結びつくという。

 たぶん少し苦しい作業だと思うけれど、他者への言葉という表現に逃げず、心身の凝視を続けてみる。うーん、なかなかに困難な道だ。

 沈黙に入門した初日から挫折しそうだ。