すぷりんぐぶろぐ

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だから、一人でメシを食えない

2011年06月14日 | 雑記帳
 たまたま回したチャンネルで(こんな言い方は古いなあと思いながらも、選んだとか押したではその時の雰囲気とちょっと違うんだよなあ…それはともかく)
 『カンブリア宮殿』という番組が放送されていた。キャスターが村上龍で経済関係者を招いて話を聞く内容らしいが、その日のゲストは「花まる学習会」の高濱正伸氏。
 ちょっとひき込まれるように観てしまった。

 特に印象深いのは、この言葉。

 「合わない病」

 塾出身者らしい若者を集めてのセミナーの場で、高濱氏が熱く語るのは、「自分に合わない」ことを理由に挙げて、何でも逃げてしまう昨今の風潮に対する批判である。
 どこかに自分を待っている場所があるはずという幻想にとらわれて合わせるための努力をしない若者たち…これは「個性尊重」という言葉が変な拡がり方をするとともに緩みきってしまった教育現場にも、大きな責任がある。

 また、高濱氏は塾に来て三日目ほどの親子の会話を聞くと、続けられるかどうかを判断できると、実に面白い話を再現した。
 つまり、親が「きちんとやったか」と問うたとき、それを受けて答えられる子は、しっかりと育っているというのだ。よく見かけられるは、親が今日のことを訊ねたときに、こんな言葉で返すという。

 「っていうか腹へった」

 それに対して、親がたしなめて「きちんと答えなさい」と言えばいいのだが、親もこんなふうに答えたりする。

 「あっ、そういえば買い物にいかなくちゃ」

 この噛み合わなさが一家庭の中で在り得ても、外には全く通用しないことの自覚があるのだろうか。
 ここにはその時その時の感情を拾って言葉にしている、雑な空気に生きている姿が見える。
 そんな中では、確実に「合わない病」は進行するだろう。

 「一人でメシを食える大人になること」

 高濱氏の掲げるこの教育方針の言葉に異を唱える人は多くないだろう。文科省がキャリア教育を打ち出してねらうこともそういう括り方だって出来る。
 しかし、子どもの現実の捉えやどう迫っていけばいいのかについては、大きな隔たりがある。

 「本当は公教育で…」と高濱氏が語った内容の多くは、実は昔の学校では結構行われていたことだったり、遊びの中で自然に体得できたことだったりする。
 それを思う時、どこか間違った場所へ連れてこられたような感覚を持ってしまう。
 いや、わかっていながら手を振り切ることもできずに、一緒に歩いたと正直に言わねばならない。