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98歳の立ち姿から教えられる

2011年06月22日 | 読書
 週刊誌の表紙に載った「98歳、奇跡の授業」という文字。興味がわいて買い求めた。
 かの灘中学校で教鞭をとり、優秀なる人材を世の中に送り出したとある。

 教職を退いてだいぶ経つが、請われて特別授業として教壇へ立つという。
 日曜日の新聞やネット上でもそのことが取り上げられていた。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110618-00000107-san-soci

 雑誌に特集として組まれたそれは、現職当時の授業がいかにして行われたか、結構ページを割いていて読ませる内容となっていた。

 中勘助作の『銀の匙』だけを教材に行う三年間かけて行われるという国語の授業。
 その内容は、一行、一字の意味、正体に迫るものである。
 「丑」という言葉が出てきたら、干支を扱い十干と十二支から五行思想までたどっていく。「駄菓子」が出てくれば飴をなめ、「凧」が出てくれば凧あげを実際にやってみる…徹底的に登場人物の気持ちに寄り添ったり、作者の意図を突き詰めたりする、それはそれは、まさに「羨ましい」という一語に尽きる気がした。

 こんな気持ちにさせられるのは何故か。

 指導目標、指導内容、そして教科書、時間に縛られていると感じている現場の教員からみれば、まさに自由闊達を絵に描いたような実践にみえる。
 しかし、それが単純に導き出されたものでないことは、誰にだってわかる。

 条件的な違いはあまりに大きいが、それにしても、多くあっただろう障害を乗り越え、その授業づくりを決断し、構想し、実現させる、「教師」としての矜持のようなものに憧れを抱いてしまうのだろう。

 今、言われたこと以上に上からのお達しを抱え込んだり、必要以上に足並みを揃えたりする傾向を、身のまわりに感じる。自分もまたそうした流れに身を任せたほうがラクチンだなという感覚が、時々ふっと湧いている。

 全てとは言わないが、これだけはというもの、そしてそれは自分の好きなこと…一つは国語の授業なんだろうなあ…がいいと思うのだけれど、曲げない、折れない、揺るがない芯のような思いを持っていたいと、98歳の立ち姿から教えられる。