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自分に引き寄せる戦略~杉渕講座感想②

2011年06月07日 | 読書
 杉渕先生が、講座で繰り返された言葉の中に次の二つが印象深い。
 (表現は少し不正確だが、ニュアンスとしてこんなこと)

 「校長の言うことはテキトーに聞いておけ。」

 「私の真似はしないでください。部分的にはいいと思うが。」


 前者はともかく(まずは棚上げしておいてください)、後者は複合された意味を持つように思う。

 そんな危険(笑)なことすれば、周囲から浮くよ、管理職ににらまれるよといったデメリットが大きいだけではないだろう。

 数々のネタ、スピード感、リズム、圧倒的な声…これらが単独のもので、個々に独立しているわけではなく、総体が杉渕実践であるのだから、なかなかつまみ食い的にチョイスすることは難しいように感じる。
 そして言うまでもなく気づくのは、その実践が杉渕鐵良という強い個性に支えられているということである。
 武闘派とでも形容していいほどの迫力や、凡事を徹底することに強くこだわりを持っているからこそ、指導が行き届く。

 そこまで、いわば人格や体力!まで踏み込んでいこうという覚悟は尋常ではないし、本当に限られた人のみしか歩めまい。

 だから我々凡教員には無理なのですよ…
 
 と簡単には引きさがるまい。
 今回の講座で紹介された中でも、部分的に取り上げられる指導法はいくつでもあるはずだ。

 例えば、詩の音読では、「一つの言葉を掘る」「一つの言葉を拡げる」指導があった。

 どんな「木」ですか?  どんな「あめ」ですか?

 例えば「状況を定める、変える」「背景を定める、変える」指導があった。

 バック音楽を流す   恋人同士ではどう言う?

 これらは教師が自己表現さえしっかりやれるのであれば(一緒に考える、一緒に楽しむ)、かなり効果的に違いない。

 九九の指導やテスト指導における、練習の頻度と達成状況把握の発想は、単に指導法としてだけではなく、児童観・指導観に拠るものだが、共鳴できれば、追試可能な範囲でもあるように思う。

 その昔、杉渕先生の「基礎の時間」を複式学級で2年ほど追試したことがあった。一定の手ごたえも感じたことを覚えている。
 今振り返ってみれば、複式という特殊状況に応じてこの部分を取り上げるという限定がよかったのかと思う。

 要は、自分という個性、そして置かれている立場に引き寄せられるのは、どのエッセンスなのか吟味し、取り入れていくという戦略である。そしてそれはどんな年齢やキャリアであっても、遅すぎることはないだろう。

 都会と地方の教員採用状況には差があり、それによる教育の思想や技能の伝達という面でも違いがある。
 しかし、いずれにしろ同じ教える立場の者として、刺激し合う関係を維持していくことの重要性に疑問符はつかない。

 その意味で、杉渕鐵良という実践者、それを迎えた東北青年塾という存在の有り難さをしみじみと感じている。