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閉鎖系、今こそ融通と節制を

2011年08月12日 | 読書
 『復興の精神』(新潮新書)

 いわゆる識者と称される方々だろう、九名それぞれが今回の震災について、震災以降の生き方について、考えや思いを述べている。
 養老孟司、茂木健一…最後の阿川弘之まで、いずれもビックネームなのだと思うが、存じ上げない方(文章は読んでいるのかもしれないが記憶がないという意味で)も混じっている。
 その二人の文章や考え方が、面白かった。


 一人は「無力者の視線」と題して書いた南直哉氏。禅僧とある。

 問われるべきは「想定」の内外ではない。「想定すること」それ自体である。「想定」によって条件づけた現実以外を相手にしなくなった、あるいはできなくなってしまった我々「人間」なのである。

 全てを「思いどおりにしよう」と進歩・成長を続けてきた人間にとって、その点こそこの震災で一番に学ぶべきことかもしれない。
 誰しも復興を願う、復興に微々たる力を寄せたいと思う。しかしそこにかつてのような繁栄を求めるのでなく、もっと質の違う姿を検討するべきなのだ…そんな言辞は当事者性を欠いているという批判があるかもしれないが、では、いつなら真剣に向き合えるというのか。

 養老氏がいつも語るようにこの国の現状を「答え」と見れば、南氏のこの一言は静かに響く。

 我々の頑張り方に欠陥があることは、もう明らかだろう。

 その自覚から生まれたキーワードもきちんと示されている。

 「融通と節制」…平凡に思えるが、その意志を貫くことは容易ではない。


 もう一人は大井玄という医師の方である。
 「倫理意識」の話が興味深い。

 震災後の日本人の行動に関しては様々な場で取り上げられているが、その整然さについてこういう視点の分析もできるのか、と思わず膝をうった。

 よく取り上げられる明治時代の日本人の行動、そして今回のような災害後の行動は、江戸時代鎖国日本において完成された「閉鎖系倫理意識」に基づいた行動だという。
 それは、このような意味をもつ。

 狭く資源の乏しい環境で、勤勉に働き、妥協を重ね、争わず生きる間に作られた生存戦略意識である。

 高潔とか気高いなどとオーバーに形容されると、ちょっと恥ずかしい気もするが、こう言われると妙に納得がいく。
 大陸に住む他国との比較は明らかであり、「開放系倫理意識」と呼ぶそうである。つまり、広い未知の土地で、他民族と争いながら生きていくときに培われる。
 一方の閉鎖系は、狭い土地で質素や正直を満足として、互いに力を寄せあってきた。

 その歴史が育んだ倫理意識は、心理テストからも明らかなそうで日本人は、「協力して目的を遂行する、仲間とつながる」場合に「よい気持ち」になる強い傾向があるとデータが示している。
 昨今の「人より優位に立つ」ための生き方にしがみつく発想が、どんな世界観から出ているかは自明である。

 閉鎖系倫理意識は、融通と節制にぴたりと当てはまるだろう。