すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その常識を疑ってみること

2011年08月16日 | 読書
 先月末に上條晴夫先生がブログで取り上げていて、
 http://ameblo.jp/gbc02527/entry-10966310374.html
 前から少し気になっていたので、取り寄せて読んでみた。

 『授業からの解放~フレネ教育運動の試み』(村田栄一 雲母書房) 

 教育潮流という表現があるが、当時(大雑把に言えば80年代)の自分には大きな視野もなかったし、仮にフレネ教育運動を知っていたとしても、結局その流れに乗れたかどうかは甚だあやしい気がする。

 いや、太郎次郎社の『ひと』を創刊号からとっていた自分であれば、それは記事のどこかで見かけていたのかもしれないし、全く目に入ってこなかったのには何か理由があったはずだ。

 とにかく、しっかりと教えたい、子どもに力をつけたいと願った先にあった、目の前にぶら下がっているものに飛びつくしかなかったのだろうか。

 この本にも登場する遠山啓や木幡寛の存在から少なからず影響を受けた。そこで自分が得た考えは、それ以降傾倒していく教育実践や運動の中である意味で共通項を持っていたはずだが、いつの間にかずいぶんと遠くなっていて、位置としても対岸の方へ離れていったようだ。

 そんな漠然とした想念を抱きながらも、引き寄せられるポイントを見つけられる本だった。
 いくつかを拾い出して、書き出してみたい。

 「教えやすい」集団・授業というように、主として教える側に即して発想するか、それとも、「育ちやすい」集団・授業というように、こども側から発想するか

 この部分は少人数学級指導のことが取り上げられて提示されている。
 私がすぐ思ったのは、そこから多少ずれるが、「複式」のことだった。

 明らかに「教えにくい集団」とされている複式学級であるが、本当にそうなのかという思いは、以前からあった。正確に言えば複式を一年経験し、二年目もまた違う組み合わせで複式学級を持ったときからだ。もう二十年近く前か。

 学年が違うことは、現制度では教科指導上の困難はかなり大きいと言えるだろう。
 しかし、それ以上に複式になる規模においては人数が多いほうがメリットになるのではないか、という思いである。
 もっと言えば、学年が違うことをメリットにできるのではないかということである。
 そういう姿勢を持って授業や学級づくりに取り組むべきという考えだった。

 そのために、同単元同教材での指導を増やしたり、学習システムをしっかりさせたり、様々な工夫をした。子どもに任せることは単学年のときからすれば多くなるが、それも貴重な体験になっただろう。
 教えやすくなくとも、育った集団だったのではないかと述懐できる。

 個人的なことを拡大解釈しているわけではない。地域や諸条件によって大きく様相の異なる場合もあるはずだ。
 ただ学校統合が進み、教育の諸情勢が大きく変化するなかで、学習集団に関する今までの常識、固定観念を疑ってみることは必要なのではないか…まず、その思いを改めて強くする。