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三尺の縄という自覚

2011年08月01日 | 雑記帳
 再来週に予定されている、県外からの視察団へ向けて簡単な資料を作成することになった。
 そのために古い研究紀要などをひっぱりだしてみたら、興味深く思えることが散見できた。

 その一つ。
その紀要は自分が教員採用された年度のものであった。
 会長(教育長)の巻頭言に続き、その年の教育講演会の記録(おそらく要旨ということだろう)が収められていた。タイトルはこうだ。

 人間とはどういうものか 

 「作家 藤原審爾先生」とある。  
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AF%A9%E7%88%BE

 私はその作品を知らないが、直木賞作家らしい。娘が女優の藤真利子であることは有名だ。といってもかなり古い話題だ。
 確か「鷹匠」のことで本町と多少の縁が出来ていたのだと思う。

 さて、この文章(講演)のなかに、こんな一節がある。

 三尺の縄で一丈の井戸の深さは測れないのですが、三尺の測れるところだけで、子育て、教育をおしすすめている

 講演の対象者は教員だけでなく父母としていたようで、家庭教育も含めて、人間理解、人間観の構築を奨め、特に読書ということを中心に語っている。
 「脳細胞」「大脳皮質」を根拠としながら進めているところなど、当時としては斬新な内容のようにも思われる。

 さて、上の喩えの一文は、もっと子ども理解を進めようという意味では何の文句もないし、全くその通りだと思う。
 しかし、どこか古さも感じさせる。それは、三尺とか縄とか井戸とかの言葉を指すのではなく、発想そのものが堅いようなイメージだ。

 何かを、いや教育を進めていくうえで、教える側の知識・理解の拡大や向上を目指すのは言うまでもないことであるが、それだけでカバーできるほど、現在の「井戸」は単純ではない。
 きっと「深さ」だけでなく、形状や材質や表面の歪さなど複雑な面がいくつもあって、もしかしたら「普通の縄」では測れなくなっているのかもしれない。

 居直るわけではないが、三尺の縄という自覚も必要だろう。そうだとすれば、その中で測り方の工夫、そして縄の材質や精度を高めていくという方向も生まれるのではないか。
 所詮、喩えではあるが、そんなふうに思うしかない。